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金閣寺と保津峡2021/02/23

冬の寒い日、MTBで近くのいつもの山へちょっと走りに行った。
家から30分ほどでシングルトラックに取り付ける。京都市内に住むサイクリストにとっては特別なことではない。
フルサスMTB SCOTT
写真:いつものシングルトラックの取り付き

ごきげんなシングルトラックを走って、
フルサスMTB
写真:ごきげんなシングルトラック

山頂から京の街を眺めると、金色の輝きが目に止まった。とても目立っていた。
それは、金閣。
金閣が輝いていた
写真:金閣の輝き。正面は比叡山。

改修工事が終わり、2020年12月29日に報道陣に公開されたとあるから、私が見たのはそれから1週間もたたないうち、できたてのホヤホヤといえる。

そこで、数日後、散歩で金閣に行ってみた。鹿苑寺(金閣)の前はしばしば通っているが、前回拝観したのは30年以上前かも。
改修された金閣
写真:改修された金閣
金閣
写真:金閣

金閣といえば、私は、水上勉の作品「金閣炎上」を思う。
1950年7月2日の放火全焼事件を詳細に描いた、息を呑む描写が連続する作品だ。今だとプライバシーの問題等で、なかなか作品化し難いかもしれない。

丹後の岬の突端の集落から出てきて金閣で住み込み修行している僧侶=学生が火を放ったのだ。

逮捕後すぐにその母は西陣署に留置されている息子に会いに行くが、本人は面会を拒み、母は、帰路の山陰線、保津峡の鉄橋から身を投げた。

私は、保津峡を通るたびに、金閣放火犯の母の気持ちを思う。
その母が飛び降りたのは、保津峡を経て亀岡盆地に入る馬堀駅手前の鉄橋ということなので、汽車が嵯峨駅を出発して保津峡にかかっても、やはりためらいがあったのではないかと想像したりもする。

子どもの頃、お盆で汽車に乗って墓参りに行く際、客車の連結部分のデッキから振り落とされはしまいかと思って怖かった。山陰線の普通列車は旧型客車だったので、ドアは手動、走行中も開いたままだった。
海水浴帰り、酒に酔った父親が子どもの目の前でデッキから落ちて死亡、というようなニュースを聞いて、我がことのように怖れたことを覚えている。

走行中の列車から飛び降りることは、決意さえすれば簡単にできることだと身体的に知っていたのだ。

ちょうど先日、朝日新聞「be」(2021年2月20日付)に原武史さんの金閣寺と保津峡についての記事が掲載されていた。(クリックして拡大)
原武史 歴史のダイヤグラム 金閣と保津峡

原武史さんは、あえて水上勉の作品に触れなかったかもしれない。
三島の「金閣寺」は、私には響かなかった。華やかな金閣の後ろにあるものについての思いが、水上にはあって三島からは感じられなかったからかもしれない。

トロッコ保津峡駅
写真:旧保津峡駅=現在のトロッコ保津峡駅(2019年11月撮影)

保津峡駅
写真:複線電化後、現在の保津峡駅(2020年4月撮影)

保津峡、山陰線の新旧
写真:保津峡:現在の山陰線と旧線(嵯峨野トロッコ鉄道)が直角に交差する地点。(2021年2月撮影)

保津峡は、京の都と鄙との境界。
大学受験で山陰線に乗って保津峡を通過する際、車掌さんから「これから先、住宅密集地に入りますのでトイレの使用はお控えください」というアナウンスがあり、そのあと山紫水明な景色が一変して、小さい小さい家の裏側--決してきれいとはいえない--が車窓に広がったのが、印象的だった。

そのような小さい小さい家に自分も住み、保津峡の側を自転車で走る日々を過ごすとは当時想像もしていなかったが、それはそれで感謝している。

六丁峠
写真:六丁峠=奥嵯峨から保津峡へは六丁峠を越えてゆく
                                 (おしまい)

丹波・美山鶴ケ岡の献灯「上げ松」見学 (2019/8)2019/08/27

丹波の各所では、8月の下旬、「上げ松」(松上げ)と呼ばれる行事が行われている。

美山・鶴ケ岡の上げ松
                写真:美山・鶴ケ岡(川合)の「上げ松」

「南丹市美山エコツーリズム推進協議会」が運営するwebによると。「上げ松」とは「...火祭りで、川べり一帯に点された松明を、高さ20mを超える灯篭に放ち点火させ、農作物の豊かな実りへの感謝と火の神「愛宕神社」へ火魔封じを願い、献燈されるもの」とのこと。

学生の頃、民俗学のリポートのため、単車で洛北・花脊の「松上げ」を見に行った覚えがあるが30数年ぶりである。

炎を扱う行事として「五山送り火」、「鞍馬の火祭り」のように有名ではないが、観光化される以前の地元の行事としての良さが残っているのが「上げ松」(松上げ)ではなかろうか。

花脊や広河原には観光客も多いと聞き、美山の鶴ケ岡に行くことにした。自分も観光客なので、すみませんが。

まずは昼間に自転車で下見。夜の行事なので、夜はクルマで行くとしても、駐車場や見学場所など、押さえておく必要があるという理屈で、自転車ライドも楽しむ。


今年は去年と比べて暑さが断然マシで、当日の8月24日、京都市内の最高気温が32度か33度であった。郊外を自転車で走っていると、風が心地よく、日陰は涼しく、「昔の夏はこんな感じだったな」と身体が思い出した。

弓削の大杉
写真:弓削の大杉

周山を過ぎて、弓削小学校(現・京北第三小学校)にある「弓削の大杉」の大きさに改めて感動したりしながら美山へと走る。

こまめ食堂
写真:こまめ食堂

バイパスを外して旧道をホロホロ走っていると、新たに食堂ができていたので早めの昼ごはん。犬好きの人のための食堂で、犬も座敷に上がれて、犬用のメニューもあった。北山には、アーティスティックであったり「エコツーリズム」的なテイストで開業しているお店が散在して、地域の魅力を高めている。

写真:周山街道を鶴ケ岡へ

久しぶりに九鬼坂を超えて、鶴ケ岡を目指す。以前、「美山ロード」という公道自転車レースに出走していた頃には、とても苦しい坂だと感じたが、ローギヤが充実した自転車でマイペースで走ると「こんなに楽だったんか!」という感想。以前の方が、体力はあったことは間違いないが。

タナセン
写真:鶴ケ岡にある「たなせん」という名の総合商店

今夜は「上げ松」だけでなく地区の盆踊りも開催されるので、地区の中心エリアにある総合商店「たなせん」広場に、その準備の方が集まっていらっしゃった。冬にスノーシューで若丹国境をテント泊で歩いた際、下山時に「たなせん」に寄って一息ついたのも懐かしい思い出。

帰路に、昨年にオープンした「一禾(いちか)」というモダンな料理屋さんに晩ごはんの予約をして、いったん自宅に帰り、シャワーを浴びて、今度はクルマで鶴ケ岡に戻った。

一禾(いちか)。京都美山の日本料理店。
写真:旬菜「一禾(いちか)」:京都府南丹市美山町鶴ケ岡

「一禾」は自転車チームメイトであって「京都府の名工(日本料理)」で表彰された実績もある、本業は京都の料理専門学校の日本料理師範の教え子さんがオーナー。
店内の誂も品よく文化的で、同じ空間が京都市内のしかるべきところにあったなら、とてもこの値段では提供されないだろう。

食材も地元のものがほとんど、例えば、鮎も美山の天然鮎、野菜も米も、もちろん地元産、といった具合で、京都市内から食べに行くだけの値打ちがある。

でも下手にタイヤ屋のガイドブックとかに載ると嫌なので、あまり有名になってほしくない。一禾は1人でオペレーションされているので、時間に余裕のある時に行くのがよい。美山荘も良いが、一禾も良い。美山には「枕川楼」という料理旅館もあって、旧館の心地よさは今でも忘れられない。新館を増築されて、そちらは、まあ普通の旅館建築という感じになってしまったが、料理の美味しさは変わらない。


一禾のドアを開けると、オーナーのお姉さんの書「瑞気集門」が迎えてくれる。
店内の誂と料理は写真に撮らなかった。訪ねてみてのお楽しみ。

で、肝心の上げ松も、よい場所でゆったり見られた。

美山の上げ松
写真:美山 鶴ケ岡の上げ松

運動会の玉入れのような感じで、松明をクルクル回して目標の灯籠に投げ入れる。年によっては4時間位かかることもあるとのことだが、今回は30分程で点火し、よい塩梅だった。

すぐ近くでもう1ヶ所、上げ松をやっているので、そちらも見学。
川沿いに電灯ではなく、リアルな火を燃やして、道案内としているのにも感動した。

写真:美山 鶴ケ岡(殿)の上げ松

「たなせん」前ではフォークダンスの音楽も流れていた。

たなせん前
写真:たなせん前の夏祭り

見世物ではない、地元の人の夏の行事を見学させてもらい、とても良かった。

旧邸 御室~右京区の昭和初期数寄屋建築を見学2018/09/30


旧邸御室
写真:旧邸御室 大広間の一枚物テーブルに写る庭の緑

ちょっと昼ご飯の後、右京区内をポタリング。
双ヶ岡の麓、御室の地にある「旧邸 御室」が特別公開されていました。

1937年(昭和12年)建築。500坪の敷地に建つ数寄屋造りの邸宅。昭和初期の高貴な郊外邸宅の一例。右京区も北の方にあがれば、そこそこの邸宅が現存したりしています。
現在のオーナーは(株)山三製材所のオーナー家。製材所は昔はビッグビジネスです。

とても素敵な空間でした。

旧邸御室
写真:特別公開の看板

旧邸御室
写真:玄関へ

旧邸御室の欄間
写真:旧邸御室の欄間

旧邸御室
写真:旧邸御室 庭園から建物を眺める

旧邸御室 灯籠
写真:15の灯籠がある

旧邸御室の茶室
写真:庭園にある茶室「双庵」

旧邸御室の茶室
写真:「双庵」内部

2018/9/22見学。

5万分の1地形図 旧版ダウンロード自在 スタンフォード大学2018/07/29

いろんなところで紹介されているので既知の方も多いと思うが、アメリカのスタンフォード大学が日本の明治~戦後すぐの期間に発行された5万分の1地形図をデータベースにあげ、特に制限なくダウンロードして使えるようになっている。

第二次世界大戦後の米国占領時に入手したものとのこと。アメリカという国の情報公開に対する姿勢というか伝統は、たいしたものである。

webサイトは下記

スタンフォード大学_5万図

一部分、未収録のエリアもあるが、5万図を指定してjpegでダウンロードできる。
重たいファイルなので、若干時間がかかる。

保存したファイルを閲覧する場合、画像表示プログラムの優劣というか向き不向きがはっきりする。ブラウザで表示したりすると遅くて使い勝手も悪い。

私が使いやすいと思ったのは「FastPictureViewer」というソフト。
マウスの右クリックで画像(地形図)が拡大され、そのままスクロールできるので、読図したい場所を簡便に表示できる。

備忘録まで。

津軽鉄道ストーブ列車、金木町卒業旅行1985年2015/10/29

大学の卒業旅行に東北を廻った。1985年のことである。

旅行用の鞄というものを持ってなかったので、ビニールで覆ってある紙袋(駅とかで売っているもの)に着替や本を入れて、旅した。軽量で、傷んでも買い換えればいいので合理的だと思って、そのアイディアを得意げに、今は妻となっている当時の彼女に話すと、なんだか残念そうな顔をされた。同情というのとも、ちょっと違う感じの。

そんなことはともかく、日本海側を鉄道で北上し、五所川原から津軽鉄道のストーブ列車に乗ったり、太宰治の生家が旅館になった「斜陽館」に泊まり、三陸海岸を廻って、遠野や花巻も訪ねて京都に帰ったのであった。

今回、フィルムスキャナーを入手したので、スキャンの練習がてらアップしてみた。
白黒にしたので、なんだかとてつもなく昔の雰囲気になった。実際、30年前になるのだが。カメラはフィールド調査用に思い切って買った一眼レフ コニカのA-COM1、レンズは標準の50mm1本のみ。当時の私の、一番高価な所有物であった。

津軽鉄道1985年
         津軽鉄道。タブレットで交換している。

津軽鉄道
         津軽鉄道のディーゼル機関車

津軽鉄道ストーブ列車:1985年
         ストーブ列車で佇む男性

津軽鉄道ストーブ列車:1985年
         津軽鉄道 ストーブ列車

芦野公園駅:太宰の「津軽」で有名
       津軽鉄道 芦野公園駅。太宰治「津軽」に登場するエピソードが印象的

芦野公園駅:太宰の「津軽」で有名
         津軽鉄道 芦野公園駅 気動車

金木駅:1985年
         津軽鉄道 金木駅と当時の私

斜陽館
         太宰治の生家が旅館「斜陽館」になっている

金木町
         金木のお寺で遊ぶ、子達

若州一滴文庫、水上勉と今井美樹2015/07/05

 
若州一滴文庫
         写真:若州一滴文庫の門

若州一滴文庫本館
         写真:本館

若州一滴文庫
         写真:移築されてきた民家もある

「若州一滴文庫(じゃくしゅういってきぶんこ)」へ梅雨の合間の日曜日に行って来た。作家の水上勉の生家があった地区にある水上勉のテーマパークのような施設で、水上勉自身が建立し、後に地元自治体に移管してNPO法人が運営している。
 水上勉の作品は、代表作の「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」をはじめとして、どれも大好きだ。松本清張は何故かしっくりこないが、水上勉の作品には引き込まれる。

 オープンして間もなくの頃、レンタカーで父母を案内して出かけた記憶がある。水上勉先生もちょうど中庭にいらっしゃって、すごい人だかりだった。

 いつ頃のことだったのだろうと、一滴文庫の年表をみると、若州一滴文庫のオープンが1985年、私が就職した年、訪ねたのはその翌年1986年だったと思う。
 
 唐突だが、1986年は今井美樹が歌手デビューした年。

 その前、久々に「AERA」を手にとったら今井美樹が表紙。記事を読んで、これまで意識したことはなかったが、今井美樹はほぼ同世代、彼女の歌手としての歩みと私のサラリーマン生活が同じ時間軸だったことに気づいた。新アルバム「Colour」をリリースとのことで、最新作では今井美樹はどんなふうになっているのだろうと思い、15年ぶりくらいに彼女のアルバムを買った。なかなか良かったので、オリジナルアルバムを全部揃えた。

 京都の自宅から一滴文庫は自転車で行ける距離だが、ちょっとそこまでという距離ではないし、走ることが目的になってしまう。ゆっくり見学して記念品や本も買いたいので、車で行くことにした。今井美樹を聴きながら。
 
 デビューから数年の若い頃のアルバムは、アイドル流行歌という雰囲気が感じられて今となっては何か古くさい感じのする曲も混じっている。発声や歌唱力も幼い。しかし、「PRIDE」大ヒット後の今井美樹は、脱皮してメロウな大人の歌手という私の好きなジャンルに進化してきたように思える。「ディーヴァ(歌姫)」の領域といってもよい。
 
 職業を転々として苦労続きだった水上勉が直木賞を得たのが1961年。「飢餓海峡」を発表した1963年は今井美樹が生まれた年。そして今井美樹が歌手デビューするまでの時の流れの中で、水上勉は大作家として財を成し、一滴文庫をデビューさせた。今井美樹が歌い手として進化している間、水上勉も作品を書き続け、亡くなる前年に一滴文庫を地元に寄附し、残した。

 当人同士何の関係もないし、その表現する世界が対照的ともいえる水上勉と今井美樹だが、何故か「母」の存在を通じて共通するものがあると、一滴文庫からの帰り道、車の中で今井美樹を聴きながら思った。

 水上勉は10歳で京都の寺に修行に出され、故郷の母を追慕していた。その母が胸まで浸かるジュル田(湿田)で働いていたその場所に、一滴文庫を建立した。

 水上勉の母への思い、母となった今井美樹が奏でる歌、それぞれが母の愛を感じさせてくれる。一滴文庫に一緒に行った私の母は、今年七回忌を迎える。

牛骨ラーメンと、これぞ源泉掛け流し「清水の湯」(寿湯)2015/02/11


雪がはらはら舞う天気がはっきりしない休日。昼ご飯に「牛骨ラーメン」を食べたくなり、鳥取県湯梨浜町松崎に行きました。(2013年3月)

お目当ては「ふけた食堂」と「清水の湯」。「清水の湯」とは地元の人の通称で、清水さんという散髪屋さんが経営しているから。「寿湯」というのが正式名称です。

これぞ源泉掛け流し、何の設備投資もしていないしその必要もない、客がいてもいなくても関係なく、ずっと源泉が流れているお風呂屋さんです。シャワーや混合栓はありません。入浴料は200円。

写真は2013年3月撮影。それからも時々、無性に入りたくなったりします。京都から行くので、贅沢な湯になりますが。
1.雪がはらはら舞う中、松崎に向かう

2.松崎駅に到着 目指す「ふけた食堂」は駅を出て右手(東方面)、すぐ近く

3.「ふけた食堂」

4.店内

5.メニュー 「牛骨ラーメン」は450円

6.脂が浮いているように見えるが、食感は、とてもあっさりしている。

7.「清水の湯」(寿湯)入口。ふけた食堂のすぐ近く。

8.質素な建物

9.風呂の入口。番台も無人なので、入る前に、入口横の散髪屋さんでお金を払う

10.入浴料は200円

11.誰もいないので、脱衣所を撮影。ロッカーはある。

12.「入浴者の心得」昭和33年4月1日 達筆である。(クリックすると拡大)

13.浴槽と洗い場。源泉掛け流しそのもので、水道で温度を調整。

14.松崎=東郷温泉(今は湯梨浜町となっているが、合併前は東郷町だった)は、田山花袋も絶賛した伝統ある温泉。

帰りは倉吉を回り、晩ご飯までには家に帰りました。