2024北海道ツーリング11:羽幌=~利尻島鴛泊・利尻山登山=羽幌 ― 2025/01/09
◆Day18:7月1日(月)曇りのち雨のち晴れ 羽幌=稚内=(フェリー)=利尻島鴛泊~キャンプ場「ゆ~に」(泊)
自転車走行:6km 、自動車走行:135km
羽幌8:01=8:43遠別=9:01手塩=10:09稚内市営北駐車場(デポ)、稚内港=(ハートランドフェリー)=12:55鴛泊(雨宿り)~14:00利尻島ファミリーキャンプ場「ゆーに」(泊)
宿を出て稚内へとノンストップで行く。フェリー乗り場からは若干離れているが無料駐車場にクルマをデポし、フェリーで利尻島鴛泊(おしどまり)へ。キャンプ場でテント泊。
テントは10年以上前に購入した「ICI石井スポーツ ゴアライト」1人用。事前に点検したが劣化は確認できず、快適に使えた。
◆Day19:7月2日(火)晴れ 利尻岳登山
自転車走行:5km、自動車走行:0
テン場4:56~(自転車)~登山口5:23~6:24第1見晴台~7:02第2見晴台~7:17長官山~7:34山小屋~8:33利尻山頂8:53~9:52長官山~10:47第1見晴台~11:44登山口・昼食12:28~(自転車)~12:34テン場(泊)
快晴無風で絶好の登山日和だった。前日は強風で飛行機が欠航したため、混雑もなく快適に登れた。
テン場から登山口は自転車。利尻山登山:登り3時間10分、山頂20分、下り2時間50分、合計6時間20分
写真:利尻山頂
*この両日について詳しくは、<利尻岳(利尻山)登山>でアップ済み。
◆Day20:7月3日(水)晴れ 利尻島一周サイクリング=(フェリー)=稚内=羽幌
自転車走行:63km、自動車走行:140km
テン場5:18~利尻島一周~9:27テン場 鴛泊港12:05=(ハートランドフェリー)=13:45稚内港、稚内北駐車場14:05=14:14ノシャップ岬14:29=16:44羽幌「吉里吉里」(泊)
お昼のフェリーまでの間に、利尻島一周サイクリングと鴛泊港ペシ岬灯台へ。
写真:利尻島のサイクリングロード
*利尻島一周について詳しくは、 <利尻島一周サイクリング>にてアップ済み
鴛泊港のターミナル食堂は団体予約のため一般客はお断りだったので、向かいにある食堂へ。店内に貼り出されたメニューには「ウニ丼 1万円」とあった。円安もあってインバウンド客にはそれでも人気なのかもしれない。「海藻ラーメン」1400円を注文。美味しかった。
写真:海藻ラーメン
フェリーで渡って稚内からは、ノシャップ岬の南極越冬隊資料展示を見学。
写真:ノシャップ岬灯台
写真:南極越冬隊資料展示コーナー
ノシャップ岬から抜海のあたりは、強風が吹きすさび、クルマで走っても裏寂しい荒涼とした土地。そんな風景に会いたくて北海道に来たのだろうか?
写真:ノシャップ岬から日本海沿いに下る
羽幌の吉里吉里に戻って、くつろいだ。
写真:羽幌の温泉。吉里吉里からはこの温泉に毎回通った。
*2024北海道ツーリング1:京都=黒埼=青森=木古内=銀婚湯
*2024北海道ツーリング2:銀婚湯=木古内~松前~江差
*2024北海道ツーリング3:江差~貝取澗~木古内
*2024北海道ツーリング4:木古内=小樽=名寄
*2024北海道ツーリング8:天塩川温泉=五味温泉おしまい
2024北海道ツーリング10:浜頓別=羽幌 ― 2025/01/08
◆Day17:6月30日(日)晴れ 浜頓別=下川町「モレーナ」=朱鞠内「森salon」=羽幌
自転車走行:0km、自動車走行:294km
浜頓別ポタリング9:40=10:52丹波屋跡=12:16下川町「モレーナ」12:48=13:47朱鞠内「森salon」14:17=15:30三渓神社(熊害慰霊碑)=三毛別熊事件跡15:55=16:32羽幌
宿での朝食時、庭にエゾリスが来ているというので、観察。
写真:エゾリス
浜頓別、高校生の頃からなぜかこの町を見てみたいと思っていた。高校の授業で使っていた帝国書院の地図帳を眺めていて。
オホーツクに面する北の町。
宿のすぐ裏手がクッチャロ湖。湖は濁っていた。
写真:クッチャロ湖
浜頓別の市街。
写真:浜頓別
浜頓別には公衆浴場があった。
写真:浜頓別の公衆浴場
浜頓別市街起点のサイクリングロードがあったので走ってみたが、すぐに通行止めになった。
写真:北オホーツクサイクリングロード
浜頓別から道道275号線で下頓別、中頓別、上頓別を通過し、小頓別の「丹波屋旅館」跡。古くは駅逓として重要な役割を担った。国登録有形文化財。初代は丹波の人だったのだろうか。
写真:丹波屋旅館(跡)
北海道の地名というのはアイヌ語起源か、開拓者の出身地由来か、「共和」とか「親和」のような開拓地らしいものが多い。地名は違っても、同じような生業ならば家屋も同じようで同じような景観が広がっている。
緩やかなのであまり意識することなく(特に自動車であるし)、天北峠を越えて音威子府村へ。数日前に走った道を再度走って(懐かしく感じる)、再び名寄を通過し、上川町の「モレーナ」というレストランへ。
なぜ、そこを目指したかというと、「吉里吉里」「五味温泉」「トシカの家」にも『昭和放浪記』『平成放浪記』『日本放浪記』の3冊シリーズ本が置いてあり、なかなか面白い内容なので、購入しようと思ったが、amazonでは扱っていない。
筆者である栗岩英彦氏は放浪終了後、上川町でレストラン「モレーナ」を開業されているので、そこへ行って直接本を購入しようと思った次第。
写真:レストラン「モレーナ」
カレーは大層美味しかった。栗岩さんの話を聞きたかったが、自動車で乗りつけているのが恥ずかしくて、遠慮した。自転車で来ていれば、いろいろ話せたと思うのだが。
3冊のシリーズ本をサイン入りで購入。
「モレーナ」の畑は無農薬、不耕起栽培。
「モレーナ」を出発して、今度は先日訪問した朱鞠内の「森salon」を目指した。
「森salon」でコーヒーとケーキ。家から近ければ都度立ち寄りたいが、朱鞠内とあっては叶わない。
写真:朱鞠内の「森salon」
朱鞠内からは先日自転車で越えた霧立峠を自動車であっけなく越え、苫前。
自転車では時間的に行けなかった、「三毛別(さんけべつ)羆事件」復元地へ。
自転車では時間的に行けなかった、「三毛別(さんけべつ)羆事件」復元地へ。
吉村昭『羆嵐』でも有名なこの事件は大正4年(1915年)、北海道苫前郡苫前村三毛別六線沢 (現在の苫前町三渓)で冬眠できなかった羆が開拓部落の7人を食い殺し3人に重傷を負わせた事件。通信手段も交通手段も乏しい当時、2日に渡って惨劇が繰り広げられ、軍隊も出動したが老猟師によって撃ち落とされた。
写真:事件現場の手前の集落にある三渓神社(さんけいじんじゃ)
神社には事件の慰霊碑があり、体験者による壮絶な一文が刻まれている。
写真:熊害慰霊碑
現場の三毛別六線沢部落跡は更に奥にある。かつては小学校の分教場もあったという開拓部落は森に還っている。
写真:三毛別羆事件の碑
写真:説明板
復元された開拓農家の建物。ヒグマの一撃にはひとたまりも無い。
写真:三毛別羆事件復元農家
写真:農家の内部
この建物は小屋や納屋ではなく、居住の母屋。開拓生活の最初の住居は三毛別に限らず、どうもこのようなものが少なくなかったようだ。冬は雪が吹き込み、ワラ束に包まって寝る、など。さすがにこのような家を知る方は存命しないだろうが、昭和の時代には記憶に残っていたのだろう。
現場を跡にし、苫前から羽幌の「吉里吉里」へ。
大きなサイドカー付きのオートバイが留まっていた。
大きなサイドカー付きのオートバイが留まっていた。
写真:とほ宿「吉里吉里」にて
*2024北海道ツーリング1:京都=黒埼=青森=木古内=銀婚湯
*2024北海道ツーリング2:銀婚湯=木古内~松前~江差
*2024北海道ツーリング3:江差~貝取澗~木古内
*2024北海道ツーリング4:木古内=小樽=名寄
*2024北海道ツーリング8:天塩川温泉=五味温泉2024北海道ツーリング9:五味温泉=浜頓別 ― 2025/01/08
◆Day16:6月29日(土)晴れ 五味温泉=サロマ湖=浜頓別
自転車走行:30km、自動車走行:270km
五味温泉8:00=9:52紋別=10:37湧別町体育館(デポ)~11:38サロマ湖~13:14デポ地=15:56北見神威岬=16:35浜頓別 とほ宿「としかの宿」(泊)
今回の旅のメーンイベントとして晴天下での利尻山登山をしたく、天気予報をみて日程調整。サロマ湖を経由して浜頓別に行って1日つぶすことにした。浜頓別はオホーツク海に面した北の街として、以前から興味があったので。
出発してしばらく走ると、かつての名寄本線上興部(かみおこっぺ)駅が鉄道資料館になっていたので、見学。
写真:上興部鉄道資料館
サロマ湖の西側の湧別にクルマをデポし、サロマ湖ポタリングに出かけた。
ちょうど、翌日が100kmウルトラマラソンで、ランナーが三々五々集まっていた。
写真:湧別町文化センター
サロマ湖の近くを自転車で走っていると、リヤカーを引く旅人あり。
現在74歳で、旅に出て6年、もうすぐ7年で日本中を回っているとのこと。北海道に入って3ヶ月だけど、北海道の道は、真っ直ぐが長くてしんどい。積丹も行きたかったけどトンネルが多いからやめた、とのこと。
食事は道端の食べられる草とか、自分で済ましている。農業をやっていたので知識はある。
毎日行水でさっぱりしている。水は公園とかトイレの。
寝るのは引いているリヤカーの中。
なかなか工夫されているキャンピングカー。
ちゃんと奥さんと子どももいるけど、奥さんからは、もう帰ってこなくていい(笑)とのこと。
なんだかもう止められないそう。
現在74歳で、旅に出て6年、もうすぐ7年で日本中を回っているとのこと。北海道に入って3ヶ月だけど、北海道の道は、真っ直ぐが長くてしんどい。積丹も行きたかったけどトンネルが多いからやめた、とのこと。
食事は道端の食べられる草とか、自分で済ましている。農業をやっていたので知識はある。
毎日行水でさっぱりしている。水は公園とかトイレの。
寝るのは引いているリヤカーの中。
なかなか工夫されているキャンピングカー。
ちゃんと奥さんと子どももいるけど、奥さんからは、もう帰ってこなくていい(笑)とのこと。
なんだかもう止められないそう。
写真:リヤカーの旅人
サロマ湖を形成する砂嘴が切れ落ちている先端、サロマ湖灯台があるところまで行ってみたかったのだが、途中で一般車は通行止めになっていた。
写真:サロマ湖、北西側からの通行止め地点
写真:通行止め付近から。左がオホーツク海。
そこは「竜宮台展望公園」の場所だったので、展望場所に登った。
写真:竜宮台展望公園
そこにはキャンプ場の管理も任されている老漁師がいて話しかけてきた。
「自転車か、どこから来た?」
「京都ですが、自動車に積んで来て、要所要所自転車です」
「北海道に何がある?」
その哲学的ともいえる問いかけに、言葉がうまく出なかった。
北海道には何があるのだろう?
写真:サロマ湖竜宮台から砂嘴先端方向
写真:竜宮台から反対側北西方向。右がオホーツク海。
デポ地に戻るべく出発してすぐに、サロマ湖を形成する砂州地帯の最果てに位置する「登栄床(とえとこ)」集落の開拓記念碑。
大正6年(1917年)にサロマ湖の牡蛎をとるために定住したのが開拓の始まり、とある。
平成8年(1996年)建立。webに地元の人による開拓誌がアップされており、内地にずっと暮らしてきた現代人の想像をはるかに超える営みが繰り広げられていたことがわかる。
写真:登栄床
写真:登栄床の開拓記念碑と神社
今ではホタテ養殖で財を成したと思われる漁家の家が建ち並ぶ
写真:サロマ湖
牡蛎かホタテかわからないが、何らかの漁をしている船が多数湖面に浮かんでいた。
写真:サロマ湖の漁船
デポ地に戻り、自転車をクルマに積み、オホーツク沿岸を北上。
ドライブとしてはハイライトになるルートだと思っていたが、強風の中、淡々と走るだけであった。唯一、休憩ポイントとなったのが、北見神威岬を望む場所。
写真:北見神威崎を望む。
浜頓別市街の外れ、クッチャロ湖近くのとほ宿「トシカの宿」に到着。
写真:としかの宿
*2024北海道ツーリング1:京都=黒埼=青森=木古内=銀婚湯
*2024北海道ツーリング2:銀婚湯=木古内~松前~江差
*2024北海道ツーリング3:江差~貝取澗~木古内
*2024北海道ツーリング4:木古内=小樽=名寄
*2024北海道ツーリング8:天塩川温泉=五味温泉2024北海道ツーリング8:天塩川温泉=五味温泉 ― 2025/01/03
◆Day15:6月28日(金)晴れ 天塩川温泉=塩狩峠=五味温泉
自転車走行:0、自動車走行:215km
天塩川温泉・・(徒歩)・・天塩川温泉駅7:57=(JR宗谷本線)=8:46名寄駅・・名寄デポ駐車場9:03=天塩川温泉(自転車回収)10:10=12:05塩狩峠記念館12:55=15:02五味温泉(泊)
宿泊した天塩川温泉に自転車を置かせてもらい、JR宗谷本線天塩川温泉駅から気動車で名寄駅へ。駅前の駐車場にデポしたクルマで再度天塩川温泉に向かい、自転車を回収した。
天塩川温泉駅。他には地元の利用客が1人。
写真:天塩川温泉駅
整理券を取って乗車
写真:整理券
「智恵文」という駅があった。学業成就にありがたそうな名前だが、そのように活用される雰囲気は感じられなかった。貨車を改造した駅舎。北海道には沢山あるようだ。
写真:智恵文駅
名寄駅に到着。
写真:名寄駅のホーム
写真:名寄駅
名寄から、三浦綾子「塩狩峠」の塩狩峠へ。天塩国と石狩国の国境。
写真:塩狩峠
写真:塩狩駅
写真:塩狩駅
写真:長野政雄氏殉職の碑
塩狩峠記念館:三浦綾子の旧宅、旭川で小さなお店を開いていたときのものを移設。
三浦綾子は、1963年、朝日新聞大阪本社創刊85周年東京本社創刊75周年の懸賞小説(賞金1000万円)に応募。応募作品「氷点」が入賞し、作家デビューした敬虔なキリスト者。
三浦綾子は、1963年、朝日新聞大阪本社創刊85周年東京本社創刊75周年の懸賞小説(賞金1000万円)に応募。応募作品「氷点」が入賞し、作家デビューした敬虔なキリスト者。
写真:塩狩峠記念館。
塩狩峠記念館をじっくり見学し、五味温泉へとクルマを走らせた。
五味温泉は下川町の公社が運営する一軒宿の温泉。
写真:五味温泉
*2024北海道ツーリング1:京都=黒埼=青森=木古内=銀婚湯
*2024北海道ツーリング2:銀婚湯=木古内~松前~江差
*2024北海道ツーリング3:江差~貝取澗~木古内
*2024北海道ツーリング4:木古内=小樽=名寄
*2024北海道ツーリング8:天塩川温泉=五味温泉2024北海道ツーリング7:サロベツ~天塩川温泉 ― 2025/01/02
◆Day14:6月27日(木)晴れ サロベツ~雄信内(おのっぷない)駅~天塩川温泉
自転車走行:112km、自動車走行:0
豊徳8:14~8:48サロベツ湿原センター9:26~11:01幌延駅~12:03雄信内駅~13:55天塩中川駅~14:31佐久駅~15:59音威子府駅~16:44天塩川温泉駅~16:48天塩川温泉(泊)
とほ宿「あしたの城」を出発。
写真:「あしたの城」の宿泊した部屋
写真:部屋の窓からの風景
すぐにこんな風景に。
写真:サロベツ原野
「サロベツ湿原センター」に立ち寄った。湿原の成り立ちや生物等についての理解を深めることができる。
写真:サロベツ湿原センター入り口
施設の裏手に広がる湿原
写真:サロベツ原野(湿原)
幌延町といえば、原発廃棄物の最終処分研究施設の立地自治体として知られている。外観からはその規模は想像できないが、地下深く、巨大な施設が建設されているとのこと。
写真:幌延町の放射性廃棄物最終処分の研究施設
研究施設の近くは酪農地帯。
写真:幌延町の農家建築
JR宗谷本線沿いに南下
写真:幌延駅
北緯45度を通過
防雪防風柵と「雄信内駅」案内標識
宗谷本線では数少ない木造駅舎であって、「秘境駅」として紹介されることが多い雄信内駅へ。
写真:雄信内駅舎
写真:雄信内駅
しかし、雄信内駅の周囲には以前は住居や商店、小学校もあったのだが、それらが全て無くなった結果として秘境駅よばわりされるようになったといういうことが、待合室にあった「駅ノート」を閲覧することによって知った。
写真:雄信内駅待合室。「駅ノート」は左下のところに写っている。
この「駅ノート」は雄信内駅を通学に使っていた方が書かれている。筆者は
元・早稲田大学大学院教授、とあるが、帰宅後気になって調べてみると、この方はなんと、財務事務次官も歴任された方だと知って驚いた。
元・早稲田大学大学院教授、とあるが、帰宅後気になって調べてみると、この方はなんと、財務事務次官も歴任された方だと知って驚いた。
かつての日本には、田舎で田んぼや畑、家の手伝いをしながらも「この子はよくできるから上の学校へ進ませよう」と家族はもちろん周囲の助けもあって進学し、本人もそれまでの感謝を忘れずよりよい世の中にしようと努力した人が、一定存在したのではあるまいか。
今は、全てが自己責任、困っている人は能力や努力が足りなかったから、俺様は能力が高いのだから恵まれて当然、とでも言いたげな人が増えているような気がする。杞憂ならばよいが。
ノートの最初と最後の頁。
写真:「雄信内駅ノート」最初の頁
写真:「雄信内駅ノート」最後の頁
写真:ノートに記された、当時の雄信内駅周辺地図
ノートの筆者はこの駅から天塩高校に通い東京大学法学部、大蔵省へ。
雄信内駅は2025年3月に廃止されると報道されている。地元自治体が、駅舎の保守費用、年間一千万円ほどが負担だからという理由。利用する人がほとんどいないので仕方ないということなのだろうが、地方再生を真剣に考えるならば、地方自治体マターということにせず、公共交通のあり方を含め、パラダイムを変革して広汎に検討することも必要なのではあるまいか。
雄信内駅を出てからも、JR宗谷本線の駅が近くにあれば立ち寄りながら走った。
写真:天塩中川駅
写真:佐久駅。「ふるさと伝承館」が併設されているので見学した。
写真:佐久駅前
写真:音威子府駅
写真:天塩川温泉駅
天塩川温泉へ渡る橋。
天塩川温泉の橋梁
写真:天塩川温泉
*2024北海道ツーリング1:京都=黒埼=青森=木古内=銀婚湯
*2024北海道ツーリング2:銀婚湯=木古内~松前~江差
*2024北海道ツーリング3:江差~貝取澗~木古内
*2024北海道ツーリング4:木古内=小樽=名寄
*2024北海道ツーリング8:天塩川温泉=五味温泉2024北海道ツーリング6:羽幌~サロベツ ― 2024/12/30
◆Day13:6月26日(水)晴れ 羽幌~サロベツ
自転車走行:96km、自動車走行:0
羽幌8:44~14:03天塩河口大橋~15:28稚咲内~15:42豊富町豊徳 とほ宿「あしたの城」泊
羽幌で宿泊した「吉里吉里」は、「とほ宿」という旅人向けの宿グループに加盟している。
宿の名前は、”井上ひさし『吉里吉里人』新潮社1981”の何らかの影響下にあったのではないかと推察。シティホテルに聖書が常備されているように、「吉里吉里」の各部屋には、この分厚い『吉里吉里人』がもれなく置いてある。
宿の名前は、”井上ひさし『吉里吉里人』新潮社1981”の何らかの影響下にあったのではないかと推察。シティホテルに聖書が常備されているように、「吉里吉里」の各部屋には、この分厚い『吉里吉里人』がもれなく置いてある。
井上ひさし『吉里吉里人』の存在は当時から知っていたが(確かベストセラーになっていた)、未読だったので、旅を終えてから読んだ。この本を読まずして北海道ツーリングを終えるわけにはいかず。この旅で「吉里吉里」に延べ3泊もしたこともあって。
834P 26文字×23行の2段組み という大著なので、旅の途中の部屋で読めるボリュームではない。家で読んでも、堅い内容ではないが、さすがに時間がかかった。今読むと昭和テイストに溢れている。
写真:井上ひさし『吉里吉里人』。最近の本よりも活字が小さく、しかも2段組み。
吉里吉里で秀逸なのは、図書コーナー。何日沈しても退屈しないだけの本が揃っている。旅関係の本が多く、私の好みと合致し、ウチにある本もたくさんあった。料理も美味しかった。風呂は近在の温泉にクルマで送迎してもらえた。館内にもあるけれど。そのためには夕方遅くならないように宿に着くのがよい。
そんなこんなで吉里吉里を出発。出発時には記念撮影をしてくれて、これまでの宿泊者の分は宿に保存されているアルバムで見ることができる。
羽幌の町を北上する。
写真:羽幌の町
写真:国道232号線
途中、宿でご一緒したランナーに追いつく。朝食をとらずに早朝に出発されている。
日本縦断、鹿児島佐多岬をスタートして宗谷岬への日本縦断ランニング旅。あと数日で宗谷岬で、そこには妻子のお出迎えがあるそう。荷物は9kgで全部背負い。宿への配送はしていない。1日長い日には70km走るとのこと。鹿児島で牧師をされている米国籍のジャックさん。
写真:日本縦断中のランナー
羽幌線跡が残っており、国道を離れてその脇道に入ったりもした。
写真:羽幌線橋梁跡(モオタコシベツ川)
遠別から国道を離れ、海沿いの道を天塩まで走った。
写真:天塩手前のダート道
写真:天塩の町
写真:道立天塩高校
写真:天塩川河口大橋
写真:牧草地
宿の手前に稚咲内(わかさかない)という開拓集落があるので、立ち寄ってみた。
写真:稚咲内への道
写真:稚咲内小学校(2010年に閉校)
写真:稚咲内小学校校舎
「入植50周年記念碑」(平成10年=1998年建立)によると、稚咲内は昭和23年(1948年)に第一陣が入植し、翌年には漁協設立。学校は分校として昭和27年に開校し、昭和28年には他地域に先駆け電化、昭和29年は鰊が大漁で大いに賑わうが昭和32年には農業転換者が多く開拓農協に加入とある。
敗戦後の食料難、生活困窮から逃れるための北海道開拓入植については、開高健の小説「ロビンソンの末裔」の内容で齟齬はないと地元出版物にもあったが、電気も通じてない中での開拓の労苦は、私には想像すらできないことだろう。
写真:稚咲内入植50周年記念碑
写真:稚咲内漁協跡
写真:稚咲内
稚咲内から砂丘列を越えた小高い場所に、とほ宿「あしたの城」があった。
宿のホームページによると、ここも順風満帆であったわけではなく、最初の建物は掘っ立て小屋のようなものであったのを、シーズンオフは出稼ぎに行って資金を貯めたりしながら今の姿になったとのこと。
写真:「あしたの城」
写真:宿から望むサロベツ原野
*2024北海道ツーリング1:京都=黒埼=青森=木古内=銀婚湯
*2024北海道ツーリング2:銀婚湯=木古内~松前~江差
*2024北海道ツーリング3:江差~貝取澗~木古内
*2024北海道ツーリング4:木古内=小樽=名寄
*2024北海道ツーリング8:天塩川温泉=五味温泉おしまい
2024北海道ツーリング5:名寄~羽幌 ― 2024/12/29
◆Day12:6月25日(火)曇り 名寄~羽幌
自転車走行:114km、自動車走行:0
名寄8:12~10:44朱鞠内湖~11:29朱鞠内「森salon」12:06~13:31霧立峠~15:23苫前~16:20羽幌 とほ宿「吉里吉里」(泊)
名寄にクルマをデポさせてもらい、3泊4日の自転車ツーリングへ。
コースを勘案するのに昼ご飯を食べられるお店は期待できないと考え、名寄のコンビニでパンなどを調達。
コースを勘案するのに昼ご飯を食べられるお店は期待できないと考え、名寄のコンビニでパンなどを調達。
名寄駅、趣のある建築。
写真:名寄駅
霧立峠を目指して西へ走る。
「名寄地区和人開拓黎明の地」の開拓記念碑があった。
明治33年、山形県から入植した開拓団によってこの地区が拓かれた。右に写るニレの樹が一面生い茂る中、今の耕地を拓いたとある。
写真:名寄開拓記念碑と開拓記念保護樹林
写真:名寄開拓の説明
山形からの開拓団なので、神社も「山形神社」。
前日訪問した新十津川神社は十津川郷士による開拓なので新十津川という地名になり、神社も新十津川神社。
写真:名寄開拓黎明の地にある山形神社
開拓地の神社というのは、その人たちにとってものすごく思い入れのある存在だったと想像する。厳しい開拓生活の中で、神社をつくり、祈る。
手の込んだ彫り物などの造作物はなく、外形的に極めてシンプルなことが心をうつ。
道南の茂辺地の神社も、そんな感じだった。アイヌの立場はともかく。
写真:茂辺地市丿渡の神社(6月14日)
開拓地には神社あり。
写真:西風連神社と開拓記念碑
周囲の景観。入植時には耕地が全くなく、森林原野だったとは想像し難い。
写真:名寄郊外
弥生地区、開拓記念碑。記念碑をつくるまで至らず、離農した場所も多いだろう。
写真:「弥生八十年開拓記念碑」昭和58年建立。
小学校は廃校になっている。
写真:弥生小学校跡の碑
天塩山地へと緩い坂を登っていき、幌加内町との境に着いた。日本で一番気温が低下するエリアのひとつ。
写真:道道729号 朱鞠内風連線
朱鞠内湖。釣り人が羆に食べられた事件が起こったのは、記憶に新しい。戦時中に作られた人造湖。
1995年に廃止された深川と名寄を結ぶ深名線にあった朱鞠内駅跡
写真:朱鞠内駅跡
人煙まれなエリアだが、Googleマップに飲食店のマークがあったのでそこを目指した。
砂漠におけるオアシスのような存在(たぶん)。
その名は「森salon」。朱鞠内のメーンストリートにある。
写真:「森salon」
写真:「森salon」の玄関
外観は普通の(北海道での)民家だが、内部に入ると尋常になく心地よい空間が広がる。
料理も、飲食店がそこかしこにあるどんなエリアにあったとしても、断然人気店になれると確信できる美味しさの品を提供されている。
2024年の5月にオープンしたばかり。内地から移住された方が「雪のある暮らしをしたくて」とのこと。単なる飲食店ではなく地元の「salon」的存在となるようにと考えられた店名だろう。
写真:「森salon」の内部
「森salon」は朱鞠内のメーンストリートに面している。
写真:朱鞠内中心部
朱鞠内から霧立峠へ向かう途中にあるバス停。冬期にも耐えられるつくりか。
写真:朱鞠内近くのバス停「共栄」
写真:「共栄」バス停
勾配はたいしたことなく、天塩山地から日本海側に抜ける「霧立峠」387mに着いた。
写真:霧立峠
写真:霧立峠
長いダウンヒルを経て、苫前。
写真:苫前、三毛別熊事件復元現場との分岐
苫前からは海岸沿いに北上。
写真:苫前橋より日本海の河口を望む
写真:苫前から羽幌への国道
羽幌、宿泊する とほ宿「吉里吉里」に到着
写真:北海道限定サッポロクラシックビール
*2024北海道ツーリング1:京都=黒埼=青森=木古内=銀婚湯
*2024北海道ツーリング2:銀婚湯=木古内~松前~江差
*2024北海道ツーリング3:江差~貝取澗~木古内
*2024北海道ツーリング4:木古内=小樽=名寄
*2024北海道ツーリング8:天塩川温泉=五味温泉2024北海道ツーリング4:木古内=小樽=名寄 ― 2024/12/28
◆Day10:6月23日(日)曇り 木古内=小樽
自転車走行:0、自動車走行:383km
木古内7:14=7:32新吉堀トンネル=8:03江差=9:21貝取澗=10:22せたな=12:40岩内=13:30神威岬14:57=16:23小樽 越中屋旅館(泊)
延べ3泊したクラッセイン木古内を出発。大浴場もあって快適なビジネスホテルだった。
写真:クラッセイン木古内
実は木古内は、明治期には酪農の先進地だったと昨日の郷土資料館で学んだ。
なぜかというと、トラピスト修道院が近くにできたこと。修道院でバターを造るための牛乳が必要となり、酪農が存立可能になった。トラピストバターやクッキーは単なる観光物産品ではないのだ。
写真:木古内近郊の酪農の建物
本当はずっと海岸沿いに自転車で積丹半島を走りたかったのだが、地形図アプリをみると、ものすごい長大トンネルだらけになっている。落盤事故もあったりして改良された道路はすべからく長大トンネル。迂回ルートは無い。なので、クルマで行くことにした。
写真:北檜山区鵜泊
原発の放射性廃棄物最終処分で名前を聞く行政区をひた走る。
ニシン漁華やかりし頃の遺構が残る海岸線をゆく。
写真:寿都町、佐藤家漁業建築ー明治10~20年築
神威岬が見えてきた。
写真:神威岬の遠望
神威岬に到着。レストハウスで「ざるそばミニウニ丼」3,260円。
写真:「ざるそばミニウニ丼」
写真:神威岬駐車場と走ってきた道
写真:神威岬
写真:神威岬灯台
小樽に着いた。
380km走ったが、感覚的には、もっと短い。大した疲れもない。
北海道の道は空いていて、ストレス少なく淡々と走れるので。
道が空いていると気分もゆったり、法定速度前後で走った。ログをみると、最高速度が70km。
地元のクルマはもっと飛ばしているかと思っていたけど、そんなことはない。時々、後に着かれたら、安全なところで左ウィンカーを出して減速すると、紳士的に追い抜いていく。
ただ1度だけ、長大トンネルでウィンカーも出さずに無灯火の軽自動車が追い抜いていった。何処にでも危ない奴は居る。
北海道の道は空いていて、ストレス少なく淡々と走れるので。
道が空いていると気分もゆったり、法定速度前後で走った。ログをみると、最高速度が70km。
地元のクルマはもっと飛ばしているかと思っていたけど、そんなことはない。時々、後に着かれたら、安全なところで左ウィンカーを出して減速すると、紳士的に追い抜いていく。
ただ1度だけ、長大トンネルでウィンカーも出さずに無灯火の軽自動車が追い抜いていった。何処にでも危ない奴は居る。
その名の通り、先祖は富山から来た人が経営している旅館に泊まる。創業明治10年。
写真:越中屋旅館
写真:旧 日本銀行小樽支店
夕食は提供されない旅館なので、宿のご主人に伺って寿司を食べに行った。
ご主人は「寿司は高いし・・・」とあまりお勧めでなかったが、「観光客向けでなく地元の方が使われる古くからあるよい店はありませんか」と言って紹介してもらった店。
ご主人は「寿司は高いし・・・」とあまりお勧めでなかったが、「観光客向けでなく地元の方が使われる古くからあるよい店はありませんか」と言って紹介してもらった店。
写真:小樽の寿司屋
写真:小樽の寿司 7,645円(別途、日本酒代含む)
美味しかったが、その値段を出せば大阪や他の場所でも食べられると思った。
食事に贅沢をした1日であった。
◆Day11:6月24日(月)雨 小樽=名寄
自転車走行:0、自動車走行:303km
自転車走行:0、自動車走行:303km
小樽8:21=8:34旭展望台=10:11石狩灯台=12:40青山トンネル=12:50幌加小学校跡=13:44十津川神社=14:22新十津川物語記念館14:56=17:02名寄 二条旅館(泊)
宿を出て、小樽商科大学へ。実は、私は共通一次試験の点数だけで二次試験がない二次募集枠で小樽商科大学に合格していた。当時、滋賀大学経済学部と小樽商科大学の2校だけが、そういう入試を実施していた。卒業した高校が、地方の公立高校にありがちな、とにかく国公立大学への合格者数を重んじる感じだったし、なんというか記念にという気持ちで出願した。京都の下宿の大家さんからは「あんた、私大の文学部に行くよりは、小樽高商、伊藤整も出た小樽に行ったほうがいいのに、、」と言われたが、全く迷いは無かった。両親は何も言わなかった。小樽商科大学に進学してたら、どんな人生になっていたのだろう。というわけで、これまで他人にそんなことを話したこともなかったが、訪問してみたかったのだ。
写真:小樽商科大学
そのまま丘をあがると公園になっていて小林多喜二の文学碑と小樽市街を眺めた。
写真:小林多喜二の文学碑
写真:小雨に煙る小樽市街
そんなことより、いよいよその日は、石狩灯台と「新十津川物語」の舞台である新十津川町を訪ねる日。
石狩灯台は「喜びも悲しみも幾年月」という灯台守の生活を描いた昔の日本映画に登場する。病人のため雪嵐の中、馬橇で駈けるシーンが印象的。
地図でみると札幌の郊外で、道東や道北と比べると断然都会近郊じゃないか、と思っていたが、リアルに訪れてみると、とてつもない辺境感に今でも満ちていた。荒涼としていて寂し過ぎた。
写真:石狩灯台
「新十津川物語」というのは偕成社の全10巻の大河創作文学。全てルビがふってあって小学生でも読めるが大人が読んでも十分読み応えがある。明治の十津川の大水害で北海道移住を余儀なくされた少女フキの波乱の人生を通じて北海道農民の体験した開拓の歴史が描かれている。私は1987年に全巻完結した際の新聞広告を目にして、何かインスピレーションを感じて、思わず広告に記載されていた版元に直接電話をかけて注文した。「関係者の方ですか」と電話口で聞かれたのを覚えている。十津川との関係は親類縁者とも全くないが、何年も後になってから自転車ツーリングや沢登りで十津川を訪れるようになった。
雨がそぼ降る中、新十津川物語記念館を訪れた。作者の川村たかし氏は奈良県五条高校や梅花女子大学で先生をしていた方で、国際アンデルセン賞や野間児童文学賞も受賞している。
写真:新十津川物語記念館
小説に登場する箇所の一部を回った。
写真:幌加小学校跡
写真:吉野小学校跡
写真:ピンネ農協吉野 跡
写真:農協倉庫
コタンの碑もあった
写真:中空知コタン跡地入口の碑
開拓農家毎に、それぞれの歴史があるのだろう。農家の一例。
写真:新十津川
写真:新十津川
小説では、大変な難所として描かれている里見峠
写真:里見峠
新十津川神社は立派だった。代々の住民の思いが籠もっているように感じられた。
写真:新十津川神社
新十津川を後にし、道央自動車道で名寄へ向かった。
*2024北海道ツーリング1:京都=黒埼=青森=木古内=銀婚湯
*2024北海道ツーリング2:銀婚湯=木古内~松前~江差
*2024北海道ツーリング3:江差~貝取澗~木古内
*2024北海道ツーリング4:木古内=小樽=名寄
*2024北海道ツーリング8:天塩川温泉=五味温泉2024北海道ツーリング3:江差~貝取澗~木古内 ― 2024/12/27
◆Day8:6月21日(金)晴れ 江差~せたな町貝取澗
自転車走行:90km、自動車走行:0、太田山神社登山
江差7:52~11:47貝取澗~13:20太田山神社15:00~16:00貝取澗(かいとりま)あわび山荘(泊)
江差を出発して海岸線を北上。
写真:乙部町豊浜漁港
コンクリートブロックで作られた住居があった。内装をしっかりすれば北海道の寒さでも大丈夫なのだろうか。私と同世代の方が公務員で北海道に赴任した際、官舎がこれと同じだったとのこと。
写真:コンクリートブロック住宅
しばらく走り、八雲町とせたな町の境の関内川に架かる関内橋に到着した。
かつては和人地と蝦夷地の境とされ、和人の北限はここまでだった。
橋を渡ると蝦夷地。
写真:関内橋
奇岩「親子熊岩」。熊も懸命に生きている。熊への暖かい眼差しを感じた。
写真:親子熊岩
この日のメーンイベントとなる太田山神社に到着。”日本で一番危険な神社”と巷間いわれているらしい。
私は、吉永小百合主演「北の桜守」という映画に登場するシーンをみて、是非とも行きたいと思い、今回の計画となった。
写真:太田山神社の上り口
写真:階段を登ったところからの海
写真:梯子状の箇所
下の鳥居からちょうど30分で本殿直下の鎖のある広場へ出た
写真:梯子状を過ぎたところの鎖場
写真:本殿への最後の乗っ越し
写真:太田山神社本殿
果たして太田山神社は日本で一番危険な神社なのだろうか? (内容に重複あり)
全部で1時間15分かかり、元の道をもどって、宿泊の「あわび山荘」の温泉でほっこりした。
写真:あわび山荘
◆Day9:6月22日(土)曇り せたな町貝取澗~木古内
自転車走行:103km、自動車走行:0
自転車走行:103km、自動車走行:0
貝取澗8:33〜11:30江差13:05〜14:52新吉堀トンネル〜15:25木古内郷土資料館16:15〜16:22クラッセイン木古内(泊)
クルマをデポしている木古内に戻る。往路の海岸線でなく、江差線も敷設されていたルートならば、標高200mに満たない峠(トンネル)を越えて、木古内は近い。
宿のある貝取澗という地名が印象的。貝を取る漁村のような特徴的な景観が広がっているのかと想像が膨らんだが、下の写真のような、まあ、今の北海道にはよくある住宅が建っている景観であった。
写真:貝取澗
円空上人滞洞跡の碑があった。円空上人は寛文7年(1667年)この地の洞で作仏修業をしたとあった。道南の蝦夷地には古くから和人が渡っていたことがわかる。
写真:円空上人滞洞跡
時間的に余裕もあり、江差市街地を見学。
写真:北海道新聞江差支局
元の酒屋さんが喫茶店になっており、久々にコーヒーとチーズケーキで一休みした。なかなか趣があり品の良い素敵な店内。江差に住まうご主人と奥様は、本州には旅行に行くが、北海道の奥の方には行ったことがないと話された。
写真:茶房 せき川
隣にある旧中村家住宅を見学。北前船と鰊漁で財を成した中村家。その後江差からは転出されたとのこと。
写真:旧中村家住宅
北海道らしい書が掛けられていた。
写真:旧中村家住宅の床の間
家屋の裏側は昔は海に繋がっていた。今は埋め立てられて国道が通っている。
写真:旧中村家住宅の裏手。船を付けて荷物を入れられる。
75坪で243万円。
写真:江差の不動産
江差駅在りし日のモニュメント。
北海道新幹線開通に伴って廃線になった江差線。
駅の敷地は、町営住宅になっていて、このモニュメントだけが、ポツンとある。
北海道新幹線開通に伴って廃線になった江差線。
駅の敷地は、町営住宅になっていて、このモニュメントだけが、ポツンとある。
江差駅跡は、町営住宅になっていた。
写真:江差駅跡
江差市街を出て、山越えで木古内へ向かう。
江差線の橋梁跡。
写真:江差線橋梁
だんだん峠が近づき、津軽橋という橋を渡る。津軽からの開拓者がいたのだろうか。今は周囲に人家の気配は感じられなかった。道路の横と上に積雪時に道路の位置を示すものがあり、冬期の状況を想像する助けになる。
写真:津軽橋
トンネルを抜けると木古内町。
写真:新吉堀トンネル、上ノ国町と木古内町の境
木古内町側にも江差線の遺構があった。
写真:江差線の橋梁跡
木古内市街が近づいたところで、廃校になった学校を利用した木古内郷土資料館があった。館内の展示物に手入れがゆきとどき、時代を経た展示物も生き生きしていた。
展示企画もよく練られていて、この種のものでは秀逸な存在だと感じた。木古内町の開拓の歴史、町の歩みもよく理解できた。この施設に立ち寄ることをお勧めしたい。
写真:木古内郷土資料館
写真:木古内郷土資料館の展示例
*2024北海道ツーリング1:京都=黒埼=青森=木古内=銀婚湯
*2024北海道ツーリング2:銀婚湯=木古内~松前~江差
*2024北海道ツーリング3:江差~貝取澗~木古内
*2024北海道ツーリング4:木古内=小樽=名寄
*2024北海道ツーリング8:天塩川温泉=五味温泉2024北海道ツーリング2:銀婚湯=木古内~松前~江差 ― 2024/12/25
◆Day5:6月18日(火)晴れ 銀婚湯=木古内
自転車走行:15km、自動車走行:206km
銀婚湯8:54=11:47椴法華(とどほっけ)支所・クルマデポ~12:18恵山岬~13:50デポ地=恵山=16:44木古内 「クラッセイン木古内」泊
銀婚湯からクルマを椴法華にデポして恵山岬ポタリング。帰路、恵山岬には岬一周道路がないので、そのドンツキ、終点のところを見てから木古内に戻った。
丹後半島なども以前は半島周回道路はなく、そもそも船で移動する時代には半島一周道路整備の優先度は低かったのであろう。
写真:北海道駒ヶ岳
途中、北海道駒ヶ岳が姿を現した。火山爆発でかつての山頂部分が吹き飛んだ山体が不安定に屹立していて、正直、気持ち悪かった。この写真の角度からは、そうでもないが尖っているほうが大きく見える場所からは。
写真:恵山岬
誠に気持ちの良い場所であった。近くには海水面の温泉がある。
写真:水無海浜温泉
写真:恵山
標高617mだが、まるで北アルプスに来ているような景観が広がっていた
写真:道路の行き止まり
恵山のある半島の行き止まりまで行ってみた。将来、半島一周道路が開通する見込みはあるのだろうか
◆ Day6:6月19日(水)晴れ 木古内~松前
自転車走行:82km、自動車走行: 0
木古内8:32~矢越海岸~15:50白神岬~16:28松前 「温泉旅館 矢野」泊
木古内から松前へ。まっすぐ行くと距離が短いので、天気も良いし、矢越海岸という行き止まりの海岸沿いをピストンした。青函トンネル記念館もじっくり見学。
写真:矢越海岸
写真:矢越海岸
行き止まりのところまで。どうして先端に行きたがるのだろう
写真:青函トンネル記念館
写真:白神岬
北海道最南端地点。白神岬は襟裳岬よりも南になる。本州最北端の大間崎よりも緯度は低い。対岸には岩木山が見える。
写真:夕陽をうけながら松前を目指す
写真:松前:温泉旅館「矢野」
◆Day7:6月20日(木)晴れ 松前~江差
自転車走行78km、自動車走行 0
松前(城下見学)9:07~14:42上ノ国夷王山~16:05江差 「港旅館」泊
松前から江差へ。松前と江差は隣町であって容易に行き来できる関係かと思っていたが、陸路ではどうもそうではなかったようだ。鉄道の時代(廃線になって久しいが)、松前は函館と江差を結ぶ江差線の木古内駅から分岐する松前線の終着駅で、松前から江差に行く場合は、松前→木古内→江差という経路になる。
もちろん、直接両者を結ぶ道路は存在していたのだが、バイパス的に改良される前は、山が海に迫って断崖絶壁が連続する海岸線を縫うように走り、季節風が吹き付ける細道であったわけで、積極的に行き来したくはないルートだったと推測する。
自転車で今回走るのにも、隣の集落まで30km以上離れていたりして、天気が良かったから良いものの、荒天であったりしたら大変なことだったと思う。
松前の宿を出て、まずは松前城を見学。松前藩というのはアイヌとの略奪的な交易の下に成り立っていた藩であり、ありがたがって偲ぶような存在ではないと思うのだが、散策した。
写真:松前城(建物はつくりもの)
桜の季節には見事だろう。
写真:松前神社
城内にあるだけあって、開拓地の神社とは趣が異なる。
写真:法憧寺(ほうどうじ)。立派な山門があった。
写真:光善寺
写真:光善寺
松前から北上し、江差目指してひたすら海岸線を走る。
時々、集落が現れる。
旧道があるところは旧道を走る。
写真:「館浜」付近。
写真:原口市街へ
「市街」とあるので、どんな町に出るのかと思って海岸沿いの旧道へ下ってみた。
写真:原口市街
このあたりでは比較的大きな集落であったが廃屋が目立つ。バイパスというか、改良された道路は集落の上を走っている。
写真:原口市街の上を走る道路
改良された道路に戻り、ひた走る。
写真:灯台が見えてきた
写真:日方岬灯台
松前町と上ノ国町の境に「北海道和人文化発祥の地」の看板があった。
写真:町界の看板
上ノ国は北海道で最も早い時期に和人が定住した地であるとされる。
町を見下ろす夷王山には、ここは和人地だと睥睨するかのように鳥居が屹立していた。
写真:夷王山の鳥居
写真:夷王山から眺める上ノ国の町並み
鎌倉時代以降、蝦夷地を支配しようとする和人の根拠地として「館」が築かれたが、そのひとつである洲崎館跡。和人地の象徴的存在として鳥居が用いられることが多い。
*2024北海道ツーリング1:京都=黒埼=青森=木古内=銀婚湯
*2024北海道ツーリング2:銀婚湯=木古内~松前~江差
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