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2024北海道ツーリング15:青森浅虫温泉=宮古市女遊戸2025/01/12

Day24:7月7日(日)晴れ 青森浅虫温泉=夏泊半島=八戸=宮古市女遊戸
 自転車走行:0、自動車走行:261km

浅虫温泉道の駅7:29=7:58夏泊半島大島8:32=9:47道の駅小川原湖=11:36八戸=12:18種市(うに丼)12:52=13:58野田村にて20万キロ達成=15:00田野畑村民俗資料館15:50=16:41宮古市女遊戸(みやこしおなっぺ)民宿「治郎兵衛」(泊)

道の駅の車中泊でぐっすり眠れた。隣のクルマで車中泊していた人は、自分で絵本をつくり、各地のバザーやイベント会場でブースを開いているとのこと。道の駅には温泉が併設されていて朝7時から開くので、車中泊の人で風呂に行く人も少なからずいた。

青森県の津軽半島と下北半島の間に、それらと比べると小さいが夏泊半島というのがあって、そこはアイヌのコタンや遺跡も多くがあったりした興味深い場所。自転車で走る時にとっておきたかったが、まあいいかと思い、クルマで走った。

夏泊半島の先端にある大島。菅江真澄の碑や大町桂月の歌碑もあるが、大町桂月を知る人は今ではもう稀有だろう。漢籍の素養がないと、読んでもよくわからないと思う。もちろん、私も。

夏泊半島大島
  写真:夏泊半島・大島
 写真:青森湾
夏泊半島大島
 写真:夏泊半島
 写真:海鳥が多くいた
 写真:夏泊半島・東田沢

道の駅「おがわら湖」でシジミラーメンを食べた。
ぷりぷりしたシジミが沢山入っていて、とても美味しかった。
 写真:道の駅「おがわら湖」
しじみラーメン
 写真:しじみラーメン

八戸市、想像していたよりも大きな街、を通過して、国道45号線を南下。三陸自動車道は走らず、地域の村々を繋ぐ国道を走った。

種市の食堂で「うに丼」3800円。
 写真:種市の食堂でウニ丼

種市の防潮堤に登ってみた。
 写真:種市の防潮堤

岩手県野田村で、クルマの走行が20万キロに達した。
12年落ちのガソリン4気筒車。これまで特筆すべき故障は無い。

 写真:20万キロ達成

田野畑村を走っていると、「民俗資料館」の案内看板があったので立ち寄ってみた。
民具とかが展示してある普通の資料館かと思っていたら、なんと、一揆がメーンテーマだった。岩手藩の圧政に苦しんだ農民の一揆。仙台藩への直訴への道を辿って自転車で走りたい。
田野畑村民俗資料館
 写真:田野畑村民俗資料館

宿は宮古市の女遊戸(おなっぺ)という集落にある民宿。
女遊戸とはアイヌ語で「小さな川のあるところ」と言う意味で、宮古地方にはアイヌ語語源の地名は他にもあるが、なぜこの漢字が当てられたのかは判らないと、宿に説明書きがあった。
 写真:宮古市女遊戸 民宿「治郎兵衛屋」

おしまい

2024北海道ツーリング14:大樹町=青森浅虫温泉2025/01/12

Day23:7月6日(土)曇りのち雨 大樹町=函館=(津軽海峡フェリー)=青森=浅虫温泉道の駅(泊)
 自転車走行:0、自動車走行:516km

大樹町セキレイ館7:58=12:21有珠山SA(昼)12:47=16:00函館フェリーターミナル17:30=(津軽海峡フェリー)=21:10青森港21:30=22:08浅虫温泉道の駅

今日からは帰路。北海道ともお別れ。
当初、函館から大間へのフェリーに乗る予定にしていたが、強風のためフェリーが欠航だと昼食時に知った。
急遽、青森港へのフェリーに変更したが、同じフェリー会社だが救済策はなく、当日券を普通に買うことになったので割引等もなく、踏んだり蹴ったり。

道内の高速道路を使って函館まで走ったが、走行距離をみると京都から東京程あったので、改めて北海道の距離感覚は内地と違うと思った。

雨の中高速を走ったが、スリップなのか無謀運転なのか居眠りなのか知らないが、ハイエースが単独事故を起こしていて、若干渋滞に巻き込まれた。

青森市内で宿は探さず、どこかで車中泊することにし、浅虫温泉道の駅に決定。

 写真:北海道大樹町の牧草地と畑

 写真:函館港、津軽海峡フェリーターミナル

 写真:津軽海峡の夕陽


おしまい


2024北海道ツーリング13:大雪高原山荘=大樹町2025/01/11

Day22:7月5日(金)晴れ 大雪高原山荘=タウシュベツ川橋梁跡=帯広=襟裳岬=大樹町 とほ宿「セキレイ館」(泊) 
 自転車走行:0、自動車走行:367km

大雪高原山荘7:21=層雲峡(送り)=8:27三国峠展望台=8:51幌加駅跡=9:25タウシュベツ橋梁跡9:43=10:30上士幌町鉄道記念館10:46=11:51帯広(六花亭)13:22=15:55えりも岬16:12=17:32大樹町 とほ宿「セキレイ館」(泊)

宿の夕食時に隣の席で話しをした登山の人を層雲峡まで送ってから帯広へ向かう。
途中の三国峠はなかなか雄大で、今度はぜひとも自転車で走りたいと思った。
三国というのは石狩国と北見国と十勝国ということか。
三国峠
 写真:三国峠

峠を下ってしばらく走ったところにある、1978年に廃線になった士幌線の幌加駅跡を見学。1962年頃の駅の周囲には80軒の建物があり350人の営みがあったが、今は何もない。洞爺丸台風による大量の風倒木処理のための集落だったということで、なんともスケールの大きな話だ。
幌加駅跡
 写真:幌加駅跡

そして、その次には有名なタウシュベツ橋梁跡が出現。

タウシュベツ橋梁跡
 写真:タウシュベツ橋梁跡
 写真:説明板

糠平温泉郷にある「上士幌町鉄道資料館」も見学。士幌線についての展示が中心。
上士幌町鉄道資料館
上士幌町鉄道資料館
 写真:上士幌町鉄道資料館

なんだか北海道の旅は、それをテーマにしていたわけではないのだが、鉄道廃線を偲ぶ旅のようになっている。

十勝平野の中心、帯広に到着。久々に都市に巡り合った気分。昨日の大雪高原山荘へのダート道でドロドロになったクルマをガソリンスタンドで洗車。

今日は由仁町に住む知人宅訪問というメーンイベントがあるので、お土産を買いに六花亭へ。駐車場がどこにあるのかわからなくて若干苦労した。

六花亭で昼食をとっていると、携帯に電話。知人からで、なんと「コロナに感染したので・・・」ということで、急遽中止に。
六花亭
 写真:帯広の「六花亭」本店

なんとか大樹町のとほ宿「セキレイ館」を当日予約することができた。
さて、午後はどうしようかと考え、ちょっと距離はあるけれど、襟裳岬に行くことにした。

だんだん寂しくなっているところへ、急に海霧が押し寄せ、あっというまに霧の中。不気味な雰囲気で引き返そうかと思ったが、思い切って行くことにした。
その後も長大トンネルがあったりして、自転車でなくてよかったかもしれないと思った。
 写真:海霧が押し寄せる

不思議なもので、少し走ると海霧は消えた。

 写真:襟裳岬へ

襟裳岬に近づくと晴れてきた。やはり自転車で来れば気持ちいいだろうと、前言を翻す思いになった。
えりも岬
 写真:襟裳岬

風が強い場所として有名だが、不思議と私が訪ねた時は、無風だった。
襟裳岬
襟裳岬
 写真:襟裳岬の先端
 写真:襟裳岬灯台

いつも宿には16時半到着目標にしているが、今回は17時半に到着。
元は養豚農家だった建物とのこと。宿泊した部屋は2階で、農家の頃は子ども部屋だったのかもしれないなどと想像した。この地を開拓し、もしかしたら居抜きで入植かもしれないが、養豚で生計をたて、離農していった一家がかつて存在し、そこが宿になり、今私が泊まっている。
セキレイ館
 写真:とほ宿「セキレイ館」

近くにある「晩成温泉」に宿からクルマで行った。緯度が高いので夏は日が長い。
北海道開拓の嚆矢は、十勝川河口に上陸した「晩成社」がその一つであり、歴史的には由緒あるエリアなのだろう。
晩成温泉
 写真:晩成温泉


おしまい

2024北海道ツーリング12:羽幌=大雪高原山荘2025/01/11

Day21:7月4日(木)晴れ 羽幌=留萌=大雪高原山荘
 自転車走行:0、自動車走行:233km

羽幌9:09=9:53小平(花田屋番屋)10:57=11:40留萠駅跡=12:14留萌ブックセンター=15:48大雪高原山荘(泊)

朝のんびり過ごし、羽幌を出発。”オロロンライン”道道239号線を南下。鰊漁でたいそう賑わったのは、今は昔。

小平町(おびらちょう)にある、国指定重要文化財、旧花田家番屋を、ゆっくり見学。
花田家番屋
花田家番屋
 写真:旧花田家番屋
花田家番屋
 写真:旧花田家番屋の内部
花田家番屋
 写真:旧花田家番屋 床の間
花田家番屋
 写真:旧花田家番屋「鰊族皆集」扁額

留萌へ。かつての留萌支庁の中心都市だが、
留萠本線の石狩沼田ー留萌間は2023年4月1日に廃止された。
駅前の形状は残しているが、将来はどうなるのだろう。
留萠駅(跡)
 写真:留萠駅(跡)
留萠駅前
 写真:留萠駅前広場から正面の大通り

留萌ブックセンターで地元出版物を数冊購入。
留萌ブックセンター
 写真:留萌ブックセンター

北海道ツーリングも終盤となり、残すは北海道の知人宅訪問。スケジュール調整のため、訪問までに1泊する必要があるため、「日本秘湯を守る会」加盟の大雪高原山荘へ泊まることにした。

道道273号線から分岐してからはダートで、クルマの走行で凄まじい砂埃が上がった。
自転車で走って、クルマに追い越されたら、悲惨だ。
 写真:大雪高原山荘へのダート道

大雪高原山荘
 写真:大雪高原山荘

源泉掛け流しの温泉は、素晴らしいものだった。


おしまい

2024北海道ツーリング11:羽幌=~利尻島鴛泊・利尻山登山=羽幌2025/01/09

Day18:7月1日(月)曇りのち雨のち晴れ 羽幌=稚内=(フェリー)=利尻島鴛泊~キャンプ場「ゆ~に」(泊)
 自転車走行:6km 、自動車走行:135km

羽幌8:01=8:43遠別=9:01手塩=10:09稚内市営北駐車場(デポ)、稚内港=(ハートランドフェリー)=12:55鴛泊(雨宿り)~14:00利尻島ファミリーキャンプ場「ゆーに」(泊)

宿を出て稚内へとノンストップで行く。フェリー乗り場からは若干離れているが無料駐車場にクルマをデポし、フェリーで利尻島鴛泊(おしどまり)へ。キャンプ場でテント泊。
テントは10年以上前に購入した「ICI石井スポーツ ゴアライト」1人用。事前に点検したが劣化は確認できず、快適に使えた。

Day19:7月2日(火)晴れ 利尻岳登山
       自転車走行:5km、自動車走行:0
テン場4:56~(自転車)~登山口5:23~6:24第1見晴台~7:02第2見晴台~7:17長官山~7:34山小屋~8:33利尻山頂8:53~9:52長官山~10:47第1見晴台~11:44登山口・昼食12:28~(自転車)~12:34テン場(泊)

快晴無風で絶好の登山日和だった。前日は強風で飛行機が欠航したため、混雑もなく快適に登れた。

テン場から登山口は自転車。利尻山登山:登り3時間10分、山頂20分、下り2時間50分、合計6時間20分

利尻山頂
 写真:利尻山頂

  *この両日について詳しくは、<利尻岳(利尻山)登山>でアップ済み。

Day20:7月3日(水)晴れ 利尻島一周サイクリング=(フェリー)=稚内=羽幌
        自転車走行:63km、自動車走行:140km
テン場5:18~利尻島一周~9:27テン場 鴛泊港12:05=(ハートランドフェリー)=13:45稚内港、稚内北駐車場14:05=14:14ノシャップ岬14:29=16:44羽幌「吉里吉里」(泊)

お昼のフェリーまでの間に、利尻島一周サイクリングと鴛泊港ペシ岬灯台へ。
 写真:利尻島のサイクリングロード

 *利尻島一周について詳しくは、 <利尻島一周サイクリング>にてアップ済み

鴛泊港のターミナル食堂は団体予約のため一般客はお断りだったので、向かいにある食堂へ。店内に貼り出されたメニューには「ウニ丼 1万円」とあった。円安もあってインバウンド客にはそれでも人気なのかもしれない。「海藻ラーメン」1400円を注文。美味しかった。
海藻ラーメン
 写真:海藻ラーメン

フェリーで渡って稚内からは、ノシャップ岬の南極越冬隊資料展示を見学。

野寒布岬灯台
 写真:ノシャップ岬灯台
 写真:南極越冬隊資料展示コーナー

ノシャップ岬から抜海のあたりは、強風が吹きすさび、クルマで走っても裏寂しい荒涼とした土地。そんな風景に会いたくて北海道に来たのだろうか?
 写真:ノシャップ岬から日本海沿いに下る

羽幌の吉里吉里に戻って、くつろいだ。
 写真:羽幌の温泉。吉里吉里からはこの温泉に毎回通った。


おしまい

2024北海道ツーリング10:浜頓別=羽幌2025/01/08

Day17:6月30日(日)晴れ 浜頓別=下川町「モレーナ」=朱鞠内「森salon」=羽幌
 自転車走行:0km、自動車走行:294km

浜頓別ポタリング9:40=10:52丹波屋跡=12:16下川町「モレーナ」12:48=13:47朱鞠内「森salon」14:17=15:30三渓神社(熊害慰霊碑)=三毛別熊事件跡15:55=16:32羽幌

宿での朝食時、庭にエゾリスが来ているというので、観察。
エゾリス
 写真:エゾリス

浜頓別、高校生の頃からなぜかこの町を見てみたいと思っていた。高校の授業で使っていた帝国書院の地図帳を眺めていて。
オホーツクに面する北の町。

宿のすぐ裏手がクッチャロ湖。湖は濁っていた。
クッチャロ湖
 写真:クッチャロ湖

浜頓別の市街。
浜頓別
浜頓別
浜頓別
 写真:浜頓別

浜頓別には公衆浴場があった。
浜頓別の公衆浴場
 写真:浜頓別の公衆浴場

浜頓別市街起点のサイクリングロードがあったので走ってみたが、すぐに通行止めになった。
北オホーツクサイクリングロード
北オホーツクサイクリングロード
 写真:北オホーツクサイクリングロード

浜頓別から道道275号線で下頓別、中頓別、上頓別を通過し、小頓別の「丹波屋旅館」跡。古くは駅逓として重要な役割を担った。国登録有形文化財。初代は丹波の人だったのだろうか。
丹波屋旅館
 写真:丹波屋旅館(跡)

北海道の地名というのはアイヌ語起源か、開拓者の出身地由来か、「共和」とか「親和」のような開拓地らしいものが多い。地名は違っても、同じような生業ならば家屋も同じようで同じような景観が広がっている。

緩やかなのであまり意識することなく(特に自動車であるし)、天北峠を越えて音威子府村へ。数日前に走った道を再度走って(懐かしく感じる)、再び名寄を通過し、上川町の「モレーナ」というレストランへ。

なぜ、そこを目指したかというと、「吉里吉里」「五味温泉」「トシカの家」にも『昭和放浪記』『平成放浪記』『日本放浪記』の3冊シリーズ本が置いてあり、なかなか面白い内容なので、購入しようと思ったが、amazonでは扱っていない。
筆者である栗岩英彦氏は放浪終了後、上川町でレストラン「モレーナ」を開業されているので、そこへ行って直接本を購入しようと思った次第。
レストラン「モレーナ」
 写真:レストラン「モレーナ」

カレーは大層美味しかった。栗岩さんの話を聞きたかったが、自動車で乗りつけているのが恥ずかしくて、遠慮した。自転車で来ていれば、いろいろ話せたと思うのだが。
3冊のシリーズ本をサイン入りで購入。
モレーナ店内と栗岩氏

「モレーナ」の畑は無農薬、不耕起栽培。
モレーナの畑

「モレーナ」を出発して、今度は先日訪問した朱鞠内の「森salon」を目指した。
「森salon」でコーヒーとケーキ。家から近ければ都度立ち寄りたいが、朱鞠内とあっては叶わない。
森salon
森サロン
写真:朱鞠内の「森salon」

朱鞠内からは先日自転車で越えた霧立峠を自動車であっけなく越え、苫前。
自転車では時間的に行けなかった、「三毛別(さんけべつ)羆事件」復元地へ。

吉村昭『羆嵐』でも有名なこの事件は大正4年(1915年)、北海道苫前郡苫前村三毛別六線沢 (現在の苫前町三渓)で冬眠できなかった羆が開拓部落の7人を食い殺し3人に重傷を負わせた事件。通信手段も交通手段も乏しい当時、2日に渡って惨劇が繰り広げられ、軍隊も出動したが老猟師によって撃ち落とされた。

三渓神社
 写真:事件現場の手前の集落にある三渓神社(さんけいじんじゃ)

神社には事件の慰霊碑があり、体験者による壮絶な一文が刻まれている。
三渓神社の慰霊碑
 写真:熊害慰霊碑

現場の三毛別六線沢部落跡は更に奥にある。かつては小学校の分教場もあったという開拓部落は森に還っている。

三毛別羆事件
 写真:三毛別羆事件の碑
三毛別羆事件
 写真:説明板

復元された開拓農家の建物。ヒグマの一撃にはひとたまりも無い。
三毛別
 写真:三毛別羆事件復元農家
三毛別の開拓農家
 写真:農家の内部

この建物は小屋や納屋ではなく、居住の母屋。開拓生活の最初の住居は三毛別に限らず、どうもこのようなものが少なくなかったようだ。冬は雪が吹き込み、ワラ束に包まって寝る、など。さすがにこのような家を知る方は存命しないだろうが、昭和の時代には記憶に残っていたのだろう。

現場を跡にし、苫前から羽幌の「吉里吉里」へ。
大きなサイドカー付きのオートバイが留まっていた。
 写真:とほ宿「吉里吉里」にて


おしまい

2024北海道ツーリング9:五味温泉=浜頓別2025/01/08

Day16:6月29日(土)晴れ 五味温泉=サロマ湖=浜頓別
 自転車走行:30km、自動車走行:270km

五味温泉8:00=9:52紋別=10:37湧別町体育館(デポ)~11:38サロマ湖~13:14デポ地=15:56北見神威岬=16:35浜頓別 とほ宿「としかの宿」(泊)

今回の旅のメーンイベントとして晴天下での利尻山登山をしたく、天気予報をみて日程調整。サロマ湖を経由して浜頓別に行って1日つぶすことにした。浜頓別はオホーツク海に面した北の街として、以前から興味があったので。

出発してしばらく走ると、かつての名寄本線上興部(かみおこっぺ)駅が鉄道資料館になっていたので、見学。
上興部鉄道資料館
上興部鉄道資料館
上興部鉄道資料館
 写真:上興部鉄道資料館

サロマ湖の西側の湧別にクルマをデポし、サロマ湖ポタリングに出かけた。
ちょうど、翌日が100kmウルトラマラソンで、ランナーが三々五々集まっていた。
 写真:湧別町文化センター

サロマ湖の近くを自転車で走っていると、リヤカーを引く旅人あり。
現在74歳で、旅に出て6年、もうすぐ7年で日本中を回っているとのこと。北海道に入って3ヶ月だけど、北海道の道は、真っ直ぐが長くてしんどい。積丹も行きたかったけどトンネルが多いからやめた、とのこと。
食事は道端の食べられる草とか、自分で済ましている。農業をやっていたので知識はある。
毎日行水でさっぱりしている。水は公園とかトイレの。
寝るのは引いているリヤカーの中。
なかなか工夫されているキャンピングカー。
ちゃんと奥さんと子どももいるけど、奥さんからは、もう帰ってこなくていい(笑)とのこと。
なんだかもう止められないそう。
 写真:リヤカーの旅人

サロマ湖を形成する砂嘴が切れ落ちている先端、サロマ湖灯台があるところまで行ってみたかったのだが、途中で一般車は通行止めになっていた。
 写真:サロマ湖、北西側からの通行止め地点

オホーツク海
 写真:通行止め付近から。左がオホーツク海。

そこは「竜宮台展望公園」の場所だったので、展望場所に登った。
サロマ湖竜宮台展望公園
 写真:竜宮台展望公園

そこにはキャンプ場の管理も任されている老漁師がいて話しかけてきた。
「自転車か、どこから来た?」
「京都ですが、自動車に積んで来て、要所要所自転車です」
「北海道に何がある?」

その哲学的ともいえる問いかけに、言葉がうまく出なかった。
北海道には何があるのだろう?

サロマ湖
 写真:サロマ湖竜宮台から砂嘴先端方向

 写真:竜宮台から反対側北西方向。右がオホーツク海。

デポ地に戻るべく出発してすぐに、サロマ湖を形成する砂州地帯の最果てに位置する「登栄床(とえとこ)」集落の開拓記念碑。

大正6年(1917年)にサロマ湖の牡蛎をとるために定住したのが開拓の始まり、とある。
平成8年(1996年)建立。webに地元の人による開拓誌がアップされており、内地にずっと暮らしてきた現代人の想像をはるかに超える営みが繰り広げられていたことがわかる。

登栄床
 写真:登栄床

登栄床
 写真:登栄床の開拓記念碑と神社

今ではホタテ養殖で財を成したと思われる漁家の家が建ち並ぶ
サロマ湖
サロマ湖
 写真:サロマ湖

牡蛎かホタテかわからないが、何らかの漁をしている船が多数湖面に浮かんでいた。
サロマ湖
 写真:サロマ湖の漁船

デポ地に戻り、自転車をクルマに積み、オホーツク沿岸を北上。
ドライブとしてはハイライトになるルートだと思っていたが、強風の中、淡々と走るだけであった。唯一、休憩ポイントとなったのが、北見神威岬を望む場所。

北見神威岬
 写真:北見神威崎を望む。

浜頓別市街の外れ、クッチャロ湖近くのとほ宿「トシカの宿」に到着。
トシカの宿
 写真:としかの宿


2024北海道ツーリング8:天塩川温泉=五味温泉2025/01/03

Day15:6月28日(金)晴れ 天塩川温泉=塩狩峠=五味温泉
 自転車走行:0、自動車走行:215km

天塩川温泉・・(徒歩)・・天塩川温泉駅7:57=(JR宗谷本線)=8:46名寄駅・・名寄デポ駐車場9:03=天塩川温泉(自転車回収)10:10=12:05塩狩峠記念館12:55=15:02五味温泉(泊)

宿泊した天塩川温泉に自転車を置かせてもらい、JR宗谷本線天塩川温泉駅から気動車で名寄駅へ。駅前の駐車場にデポしたクルマで再度天塩川温泉に向かい、自転車を回収した。

天塩川温泉駅。他には地元の利用客が1人。
天塩川温泉駅
天塩川温泉駅
天塩川温泉駅
 写真:天塩川温泉駅

整理券を取って乗車
 写真:整理券

「智恵文」という駅があった。学業成就にありがたそうな名前だが、そのように活用される雰囲気は感じられなかった。貨車を改造した駅舎。北海道には沢山あるようだ。
智恵文駅
 写真:智恵文駅

名寄駅に到着。
名寄駅
 写真:名寄駅のホーム
名寄駅
 写真:名寄駅

名寄から、三浦綾子「塩狩峠」の塩狩峠へ。天塩国と石狩国の国境。
塩狩峠
 写真:塩狩峠
塩狩峠駅
 写真:塩狩駅
塩狩峠駅
 写真:塩狩駅
長野政雄氏殉職碑
 写真:長野政雄氏殉職の碑

塩狩峠記念館:三浦綾子の旧宅、旭川で小さなお店を開いていたときのものを移設。
三浦綾子は、1963年、朝日新聞大阪本社創刊85周年東京本社創刊75周年の懸賞小説(賞金1000万円)に応募。応募作品「氷点」が入賞し、作家デビューした敬虔なキリスト者。

塩狩峠記念館
 写真:塩狩峠記念館。

塩狩峠記念館をじっくり見学し、五味温泉へとクルマを走らせた。
五味温泉は下川町の公社が運営する一軒宿の温泉。

五味温泉
 写真:五味温泉

2024北海道ツーリング7:サロベツ~天塩川温泉2025/01/02

Day14:6月27日(木)晴れ サロベツ~雄信内(おのっぷない)駅~天塩川温泉
自転車走行:112km、自動車走行:0

豊徳8:14~8:48サロベツ湿原センター9:26~11:01幌延駅~12:03雄信内駅~13:55天塩中川駅~14:31佐久駅~15:59音威子府駅~16:44天塩川温泉駅~16:48天塩川温泉(泊)

とほ宿「あしたの城」を出発。
あしたの城
 写真:「あしたの城」の宿泊した部屋
あしたの城の部屋から
 写真:部屋の窓からの風景

 すぐにこんな風景に。
サロベツ原野
サロベツ原野
 写真:サロベツ原野

「サロベツ湿原センター」に立ち寄った。湿原の成り立ちや生物等についての理解を深めることができる。
サロベツ湿原センター
 写真:サロベツ湿原センター入り口

施設の裏手に広がる湿原
サロベツ湿原
 写真:サロベツ原野(湿原)

幌延町といえば、原発廃棄物の最終処分研究施設の立地自治体として知られている。外観からはその規模は想像できないが、地下深く、巨大な施設が建設されているとのこと。
 写真:幌延町の放射性廃棄物最終処分の研究施設

 研究施設の近くは酪農地帯。
 写真:幌延町の農家建築

JR宗谷本線沿いに南下

幌延駅
 写真:幌延駅

北緯45度を通過

防雪防風柵と「雄信内駅」案内標識

宗谷本線では数少ない木造駅舎であって、「秘境駅」として紹介されることが多い雄信内駅へ。
雄信内駅
雄信内駅
雄信内駅
 写真:雄信内駅舎
雄信内駅
 写真:雄信内駅

しかし、雄信内駅の周囲には以前は住居や商店、小学校もあったのだが、それらが全て無くなった結果として秘境駅よばわりされるようになったといういうことが、待合室にあった「駅ノート」を閲覧することによって知った。

 写真:雄信内駅待合室。「駅ノート」は左下のところに写っている。

 この「駅ノート」は雄信内駅を通学に使っていた方が書かれている。筆者は
元・早稲田大学大学院教授、とあるが、帰宅後気になって調べてみると、この方はなんと、財務事務次官も歴任された方だと知って驚いた。

かつての日本には、田舎で田んぼや畑、家の手伝いをしながらも「この子はよくできるから上の学校へ進ませよう」と家族はもちろん周囲の助けもあって進学し、本人もそれまでの感謝を忘れずよりよい世の中にしようと努力した人が、一定存在したのではあるまいか。
今は、全てが自己責任、困っている人は能力や努力が足りなかったから、俺様は能力が高いのだから恵まれて当然、とでも言いたげな人が増えているような気がする。杞憂ならばよいが。

ノートの最初と最後の頁。
 写真:「雄信内駅ノート」最初の頁
 写真:「雄信内駅ノート」最後の頁

 写真:ノートに記された、当時の雄信内駅周辺地図

ノートの筆者はこの駅から天塩高校に通い東京大学法学部、大蔵省へ。

雄信内駅は2025年3月に廃止されると報道されている。地元自治体が、駅舎の保守費用、年間一千万円ほどが負担だからという理由。利用する人がほとんどいないので仕方ないということなのだろうが、地方再生を真剣に考えるならば、地方自治体マターということにせず、公共交通のあり方を含め、パラダイムを変革して広汎に検討することも必要なのではあるまいか。

雄信内駅を出てからも、JR宗谷本線の駅が近くにあれば立ち寄りながら走った。
天塩中川駅
 写真:天塩中川駅

佐久駅
 写真:佐久駅。「ふるさと伝承館」が併設されているので見学した。

佐久駅前
 写真:佐久駅前

音威子府駅
 写真:音威子府駅

天塩川温泉駅
 写真:天塩川温泉駅

天塩川温泉へ渡る橋。
天塩川
 天塩川温泉の橋梁

天塩川温泉
 写真:天塩川温泉

2024北海道ツーリング6:羽幌~サロベツ2024/12/30

Day13:6月26日(水)晴れ 羽幌~サロベツ
 自転車走行:96km、自動車走行:0

羽幌8:44~14:03天塩河口大橋~15:28稚咲内~15:42豊富町豊徳 とほ宿「あしたの城」泊

羽幌で宿泊した「吉里吉里」は、「とほ宿」という旅人向けの宿グループに加盟している。
宿の名前は、”井上ひさし『吉里吉里人』新潮社1981”の何らかの影響下にあったのではないかと推察。シティホテルに聖書が常備されているように、「吉里吉里」の各部屋には、この分厚い『吉里吉里人』がもれなく置いてある。

井上ひさし『吉里吉里人』の存在は当時から知っていたが(確かベストセラーになっていた)、未読だったので、旅を終えてから読んだ。この本を読まずして北海道ツーリングを終えるわけにはいかず。この旅で「吉里吉里」に延べ3泊もしたこともあって。

834P 26文字×23行の2段組み という大著なので、旅の途中の部屋で読めるボリュームではない。家で読んでも、堅い内容ではないが、さすがに時間がかかった。今読むと昭和テイストに溢れている。
井上ひさし 吉里吉里人
井上ひさし 吉里吉里人
 写真:井上ひさし『吉里吉里人』。最近の本よりも活字が小さく、しかも2段組み。

吉里吉里で秀逸なのは、図書コーナー。何日沈しても退屈しないだけの本が揃っている。旅関係の本が多く、私の好みと合致し、ウチにある本もたくさんあった。料理も美味しかった。風呂は近在の温泉にクルマで送迎してもらえた。館内にもあるけれど。そのためには夕方遅くならないように宿に着くのがよい。

そんなこんなで吉里吉里を出発。出発時には記念撮影をしてくれて、これまでの宿泊者の分は宿に保存されているアルバムで見ることができる。

羽幌の町を北上する。
羽幌
 写真:羽幌の町
 写真:国道232号線

途中、宿でご一緒したランナーに追いつく。朝食をとらずに早朝に出発されている。
日本縦断、鹿児島佐多岬をスタートして宗谷岬への日本縦断ランニング旅。あと数日で宗谷岬で、そこには妻子のお出迎えがあるそう。荷物は9kgで全部背負い。宿への配送はしていない。1日長い日には70km走るとのこと。鹿児島で牧師をされている米国籍のジャックさん。
 写真:日本縦断中のランナー

羽幌線跡が残っており、国道を離れてその脇道に入ったりもした。
羽幌線跡
 写真:羽幌線橋梁跡(モオタコシベツ川)

遠別から国道を離れ、海沿いの道を天塩まで走った。
 写真:天塩手前のダート道
 写真:天塩の町
手塩高校
 写真:道立天塩高校
天塩川河口大橋
 写真:天塩川河口大橋
 写真:牧草地

宿の手前に稚咲内(わかさかない)という開拓集落があるので、立ち寄ってみた。
 写真:稚咲内への道
稚咲内
 写真:稚咲内小学校(2010年に閉校)
稚咲内小学校跡
 写真:稚咲内小学校校舎

「入植50周年記念碑」(平成10年=1998年建立)によると、稚咲内は昭和23年(1948年)に第一陣が入植し、翌年には漁協設立。学校は分校として昭和27年に開校し、昭和28年には他地域に先駆け電化、昭和29年は鰊が大漁で大いに賑わうが昭和32年には農業転換者が多く開拓農協に加入とある。

敗戦後の食料難、生活困窮から逃れるための北海道開拓入植については、開高健の小説「ロビンソンの末裔」の内容で齟齬はないと地元出版物にもあったが、電気も通じてない中での開拓の労苦は、私には想像すらできないことだろう。
稚咲内
 写真:稚咲内入植50周年記念碑
稚咲内
 写真:稚咲内漁協跡
稚咲内
 写真:稚咲内

稚咲内から砂丘列を越えた小高い場所に、とほ宿「あしたの城」があった。
宿のホームページによると、ここも順風満帆であったわけではなく、最初の建物は掘っ立て小屋のようなものであったのを、シーズンオフは出稼ぎに行って資金を貯めたりしながら今の姿になったとのこと。

「あしたの城」
 写真:「あしたの城」
 写真:宿から望むサロベツ原野


おしまい