明辺鉱山・神子畑選鉱場・1円電車(跡) ― 2021/11/22
廃墟、失われたものを想って、それを観光資源にするのは、ヨーロッパ人と日本人ぐらいではないかと書いていたのは村上春樹だったような記憶があるが、定かではない。
失われたものについての感情が人類の多くに共通なものなのかどうかは判らないが、かつて錫や銅の有数の鉱山であった但馬の明延(あけのべ)鉱山と神子畑(みこばた)選鉱場を想い、その2箇所を結んでいた「1円電車」跡を訪ねてみた。
写真:運賃が1円なことから、「1円電車」と呼ばれた、鉱山鉄道。神子畑選鉱場跡。
昭和61年(1986年)発行の国土地理院5万分の1地形図には、路線が載っている。
写真:5万図「大屋市場」昭和61年発行 (クリックして拡大)
和田山駅をスタートし、法道寺から畑峠(地形図には記載なし)を経て、建屋川(たきのやがわ)沿いに標高を上げ、カカナベ峠、明延へ。
写真:和田山町法道時のお地蔵さん
写真:畑峠
いつもは北近畿自動車道で通過している養父IC付近。建屋川と畑川の合流点付近。
写真:養父IC近くの橋
カカナベ峠は近年、車道が開通した峠
写真:カカナベ峠への道
写真:カカナベ峠
いよいよ明辺へ。鉱山が盛んな時代に潤ったのか、大きな家が手前にあった。
明辺地区に入ると、いきなりかつての鉱山住宅(跡)が飛び込んでくる。
写真:明延の鉱山住宅跡。閉山後は市営住宅に使われていたとのこと。
写真:鉱山住宅跡。ここにも生活があった。
写真:明延、ガソリンスタンド跡
写真:明延、1円電車
写真:明延、1円電車
写真:明延
鉱山関係の建物は、ほとんど取り壊されているが、唯一残った浴場のたてもの
写真:明延、第一浴場(跡)
鉱山の中心地だったところ。インクライン跡が残っている。
写真:明延鉱山中心地(跡)
1円電車の踏切も塗り直されて残っていた。正面の蓋が1円電車のトンネル
写真:1円電車踏切跡とトンネル跡
地形図にある、鉱山中心地から奥の、行き止まり坑道跡らしきところまで、行ってみた。
写真:車道が通じるドンツキの坑道跡
坑道跡のところ。大きな建物があったのだろう。
写真:建物跡
1円電車なら明延から神子畑までトンネルで直通だが、今では明延から神子畑までは峠を2つ越えないといけない。傾斜も適当で、とても気持ち良く走れる道だった。
写真:1つ目の峠、富士野トンネル
写真:2つ目。傘杉トンネル
写真:神子畑小学校跡
写真:神子畑選鉱場跡
神子畑選鉱場からは下り坂をスイスイ走ってJR播但線新井駅へ。
神子畑から新井駅へは、かつて「明延神新軌道」という鉱石輸送の鉄道が1889年から1957年まであったことを知った。
写真:JR播但線新井駅
新井駅から輪行して帰ろうかと思ったが、播但線沿いに旧国道が和田山まで続いているので、そのルートを走って和田山駅まで大正解であった。
■走行日:2021年11月13日(土)
■使用自転車:TOEI650Aランドナー
■走行キロ:89km
■峠(5万図記載):カカナベ峠(409m)
※走行GPSログ(クリックして拡大)
コメント
_ takaginotamago ― 2021/11/25 09:11
_ 管理人 ― 2021/11/26 21:39
ありがとうございます。確かに、明延の鉱山が終わってから、相当の年月が経っていますし、あの豪邸は鉱山のかなり手前にありますので。
自転車で走っていても、なんというか巡検のような視点になってしますのは、地理学科で学んだ成果?でしょうか。
自転車で走っていても、なんというか巡検のような視点になってしますのは、地理学科で学んだ成果?でしょうか。
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4軒長屋の鉱山住宅とは対照的な明延付近の蔵のある豪邸ですが、現在も家屋敷が端正に維持されている佇まいからみて、鉱山の最盛期に冨を成したというよりも、例えば山林地主といったもっと長い歳月をかけて地道に資産を貯えてきたようにも思えます。
鉱業で潤った土地はどこもそうですが、掘り尽くして事業主体が撤退すると、ほどなくしてゴーストタウンになってしまいます。鉱山の経営層とて同じで、某麻生氏のような例外はありますが、邸宅や庭を維持するだけの資力が続かないのでしょう。もし、同じコースを走る機会があれば、立ち寄って訊ねてみましょう(笑)