沢登り-十津川水系 芦廼瀬川(あしのせがわ) ― 2016/09/18
暑さ寒さも彼岸まで。今年の夏の思いで。
沢には今シーズン4回行った。十津川水系の芦廼瀬川の本流遡行をKさんが組んでくれて、参加させてもらった。私は3回目だが、沢は都度、水量やヌメリ、地形の改変が生じているので、いつでも新鮮だ。
同行した方の感想に「水の中を歩いて、泳いで、登って、焚き火して、串焼きを食べて、やりたいことが全部できた」という意味の言葉があったが、私も全く同感。リーダーのKさん、同行の皆さん、ありがとうございました。自転車ツーリングと違って、1人では絶対に出来ません。
沢には今シーズン4回行った。十津川水系の芦廼瀬川の本流遡行をKさんが組んでくれて、参加させてもらった。私は3回目だが、沢は都度、水量やヌメリ、地形の改変が生じているので、いつでも新鮮だ。
同行した方の感想に「水の中を歩いて、泳いで、登って、焚き火して、串焼きを食べて、やりたいことが全部できた」という意味の言葉があったが、私も全く同感。リーダーのKさん、同行の皆さん、ありがとうございました。自転車ツーリングと違って、1人では絶対に出来ません。
入渓してすぐの足慣らし。写っているのは同行のWさん。
この滝は、巻く。芦廼瀬川で巻くのは、この滝のみ。
過去2回の時は、苦労した覚えがなかったが、今回はヌメリがすごく、苦労した。
泊まり装備のザックの重さも堪えた。Wさんにショルダーしてもらい、乗り越した。
泊まり装備のザックの重さも堪えた。Wさんにショルダーしてもらい、乗り越した。
ヌメヌメで、なにげないところも苦労する
芦廼瀬川 核心の8m滝。上にいるのは「沢下り」してきた姫路山岳会の人。まさか、下ってくる人がいるとは思わなかったので、びっくりした。
リードする、Kリーダー
無事リーダーが登り、セカンドにWさんが続き、後続への続きのルート工作をしてくれる
その次に小生が登るの図。Wさん撮影。写真でみると、別に怖くなさそうだが、ロープで確保されているとはいえ落ちるわけには絶対いかず、ヌメヌメなこともあり、200%くらいの力を振り絞って、何でもありで登る。
核心部を越えると、怖いところは無いが、ヌメヌメのため、お助けを出してもらったりしながらチームワーク良く進む
平和な感じ
ちょっと時間は早いが、幕地を定める。釣りをする人も。ヒルバークのタープは実に使いやすい。
焚き火で至福の時。下界は35度オーバーだが、沢では長袖で丁度良い。炎の遠赤外線効果が気持ち良い。
夜が訪れる
翌日も時々、ちょっとした泳ぎを交えながら、特に困難な箇所もなく、遡行終了。
クルマのデポ地にドンピシャで上がれて、午前中の予定よりもかなり早い時間に遡行を終了した。
おしまい
クルマのデポ地にドンピシャで上がれて、午前中の予定よりもかなり早い時間に遡行を終了した。
おしまい
福山から倉吉へ。宮本常一「山の道」の町を訪ねて ― 2016/09/18
民俗学者の宮本常一「山の道」八坂書房2006 を読んでいると、「山中をあるいていると、思いもうけぬようなところで思いもそめぬような町に出くわすことがある。・・・とくにそういう町の多いのは中国山地である」。
「人が歩いて旅をした頃は山の尾根を通る道が少なくなかった。広島県の福山市から北へ、油木町にいたる道のごときも・・・」。
とあり、続いていくつかの町について記してある。
◇峠の町・小吹(こびき)・・・馬方の中継地。たたら鉄の輸送。大きな問屋もあった。鉄道が開通して、さびれた。
◇丘の町・油木(ゆき)・・・小吹の栄えていたころにはひっそりした村だったが、荷車が通るようになって栄えた。馬の背に荷をつけた時代は荷の後押しをする者もなかったが、車道がついてからはクルマ(人力)の後押しが必要だから。
◇高山市(こうやまいち)・・・牛市で栄えた。
など。今では想像もできない繁栄が中国山地の中で繰り広げられ、その痕跡はかすかな残存をとどめているのだろうか。
そんなところを訪ねてみたくて、2016年の7月、5万分の1地形図を頼りに、広島県福山市から中国山地をうねうねと、鳥取県倉吉市まで走った。
倉吉も渋い町で、江戸~明治の頃、千歯扱きの有数の産地として繁栄した。また、江戸時代には大阪の豪商淀屋が闕所(けっしょ=財産没収)の期間、倉吉に身を潜めて、後の世代に再び大阪で再興したとのことで、それだけのことがある町だったのだろう。
◇2016年7月16日 京都6:56(のぞみ95号)=8:13福山9:05~12:30神石高原町小吹~13:10油木町13:30~15:05神石高原町花済~15:20高山市~16:15成羽川~16:50(河岸段丘のヒルクライム終了)~17:17高梁市宇治町元仲田邸くらやしき(泊)
7月17日 泊地8:40~8:54御葉峠~9:12高梁川~9:19田井橋9:46~9:50備中川面駅~11:03才乢~12:50満奇洞(昼食)13:20~14:54月田駅~15:18中国勝山駅~16:16真賀温泉木地屋旅館(泊)
7月18日 泊地7:25~8:57鏡野町との峠~9:09ダウンヒル終了三叉路~9:52真庭市との峠(上杉越)~10:25中和村常藤~10:43鳥取県境~11:56倉吉市河原町~12:23土蔵群(昼食)12:47~13:10倉吉駅14:25=(スーパーはくと10号)=17:48京都
◇自転車:グランボア650Bランドナー(デモンタブル)
◇峠:柳峠(やなぎたお:457m)、上杉越(植杉越)うえすぎごえ:762m)
「人が歩いて旅をした頃は山の尾根を通る道が少なくなかった。広島県の福山市から北へ、油木町にいたる道のごときも・・・」。
とあり、続いていくつかの町について記してある。
◇峠の町・小吹(こびき)・・・馬方の中継地。たたら鉄の輸送。大きな問屋もあった。鉄道が開通して、さびれた。
◇丘の町・油木(ゆき)・・・小吹の栄えていたころにはひっそりした村だったが、荷車が通るようになって栄えた。馬の背に荷をつけた時代は荷の後押しをする者もなかったが、車道がついてからはクルマ(人力)の後押しが必要だから。
◇高山市(こうやまいち)・・・牛市で栄えた。
など。今では想像もできない繁栄が中国山地の中で繰り広げられ、その痕跡はかすかな残存をとどめているのだろうか。
そんなところを訪ねてみたくて、2016年の7月、5万分の1地形図を頼りに、広島県福山市から中国山地をうねうねと、鳥取県倉吉市まで走った。
倉吉も渋い町で、江戸~明治の頃、千歯扱きの有数の産地として繁栄した。また、江戸時代には大阪の豪商淀屋が闕所(けっしょ=財産没収)の期間、倉吉に身を潜めて、後の世代に再び大阪で再興したとのことで、それだけのことがある町だったのだろう。
◇2016年7月16日 京都6:56(のぞみ95号)=8:13福山9:05~12:30神石高原町小吹~13:10油木町13:30~15:05神石高原町花済~15:20高山市~16:15成羽川~16:50(河岸段丘のヒルクライム終了)~17:17高梁市宇治町元仲田邸くらやしき(泊)
7月17日 泊地8:40~8:54御葉峠~9:12高梁川~9:19田井橋9:46~9:50備中川面駅~11:03才乢~12:50満奇洞(昼食)13:20~14:54月田駅~15:18中国勝山駅~16:16真賀温泉木地屋旅館(泊)
7月18日 泊地7:25~8:57鏡野町との峠~9:09ダウンヒル終了三叉路~9:52真庭市との峠(上杉越)~10:25中和村常藤~10:43鳥取県境~11:56倉吉市河原町~12:23土蔵群(昼食)12:47~13:10倉吉駅14:25=(スーパーはくと10号)=17:48京都
◇自転車:グランボア650Bランドナー(デモンタブル)
◇峠:柳峠(やなぎたお:457m)、上杉越(植杉越)うえすぎごえ:762m)
写真:広島県神石高原町安田中、かつては繁栄を誇ったであろう。
写真:高梁市宇治、元仲田邸くらやしき・・・かつての有力者の家が今は宿泊施設。料理が大変美味であった。地元の食材で、地元のおばちゃんがつくってくれる料理。
写真:高梁市巨瀬町にて。中山間地の景観。
写真:高梁市巨瀬町河原地にて。
写真:真賀温泉、木地屋旅館に泊まる。その名称から木地師と関係があるのか宿のおばあさんに訪ねたところ、「もともと先祖が隠岐の島から鳥取の東郷(現・湯梨浜町)に出てきた木地師(の一族)から婿さんを迎えて、今の旅館のある場所の川向かいに住んでいたが、明治の頃の大水害で婿さんは流されてしまった。木地師の道具は残ってないかとよく聞かれるが、何も残っていない」とのこと。
写真:岡山県真庭市月田の造り酒屋倉庫
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