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鳥取市河原町から三徳山経由鹿野町(2015/8)2015/08/14


鳥取市吉岡への峠。お地蔵さんが見守る
         写真:鳥取市鹿野町から吉岡温泉町への峠道。

お盆の帰省中、1日を自転車ツーリングにあてた。
地形図をみて、以前から走ってみたいと思っていたコース。

ローカルな話題であるが、以前は谷のどんずまりで平家の落人伝承もある「鳥取県三朝町中津」という集落(天神川水系)に、山を越して林道が繋がり、鳥取市側(千代川水系)から行けるようになっており、走りたいと思っていたのだ。林道が開通したのは、もう十数年前のようだが。

三徳山は登り口の茶屋で昼食をとっただけで通過。
峠を下った「鹿野町(しかのちょう)」が、良かった。
司馬遼太郎が「街道を行く」の中で “人通りはない。通りは水の底のように静かで、ときどき京格子の町屋や、白壁に腰板といった苗字帯刀身分の屋敷などが残っている。ぜんたいに、えもいえぬ気品をもった集落なのである。”と記した町である。鹿野城址に中学校があるのも子どもの教育を重視する気風が伺える。

            ルートラボで詳しく見る


スタートして千代川(せんだいがわ)沿いを走る
         写真:千代川沿いに、「河原町」にむかう

正面に見える「髙山」の麓を林道で抜ける
         写真:正面にみえる「髙山」の下を林道が貫く

「髙山トンネル」林道ピークの近く
         写真:「髙山トンネル」

今回はTREK Madon5.2とオルトリーブのサドルバック
         写真:今回はTREK Madon5.2+オルトリーブのサドルバック

帰路、「鹿野町」に寄る。司馬遼太郎が絶賛した町。
         写真:鹿野城址
写真はGoogleフォトにアップしています(31枚)

2015年8月14日走行

ロードレースの思いで:シマノ鈴鹿と丸岡2015/08/22


シマノ鈴鹿レース2008にて
  シマノ鈴鹿ロードレース2008年にて

 8月お盆の翌週の週末は、「シマノ鈴鹿ロードレース」。今日も、鈴鹿サーキットは盛り上がっていることでしょう。チームメイトは今年も多数参戦していますが、私は2010年からレースは休止しています。「グリーンピア三木」で開催されていたころから参戦し続けていましたが。

山岳会に入会し、週末の過ごし方が変わったためです。
自転車ロードレースは、片手間では出来ないし、練習不足で出ても面白くないのです。ホビーレースの完走はフルマラソン完走のような意義はありません(レベルの高いクラスで脚切りが多くて完走率が低いレースは別)。まして、練習不足で出走するのは、たいへん危険で皆に迷惑をかけます。集団落車の原因にでもなれば、大罪です。怪我はもちろん、今だと一コケ50万円はザラでしょう。カーボンフレームと高価なホイールで、自動車のように車両保険はありませんし。

マラソンなら、そんなに練習してなくて出走しても、それなりに走れてしまって充実感も得られたりしますし、他の人に危害を及ぼすことも、まずありません。高いレベルで参戦している方には失礼な言い方ですが。機材の有無とスピードの違いですね。

このブログは自分の備忘録ということもありまして、以前HPで公開していたロードレースのコンテンツを転載します。自分でしみじみ懐かしむためでして、すみません。

最近ではシマノ鈴鹿のレースカテゴリーには60歳以上の「マスターズ60+」もあるようなので、またそのころに出られたらいいなあと思います。将来は「マスターズ70+」も出来るかもしれませんね。

※以下、以前のHPの写し ※丸岡のレースは公道レースとしてダイナミックないいコースでしたが、死亡事故が起きて、それ以降中止になってしまいました。
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丸岡グリーンロードレースの記録

子どもが産まれた95年は欠場しているものの、毎年出走を続けている福井県丸岡市で開催される「丸岡グリーンロードレース」の記録。
本格的な公道使用のロードレースで峠もあり、下りでは70kmオーバーでペダルを回し続ける。

年によってコースが若干異なったりするし、ロードレースは着順を競う性質なので、タイムの単純な比較は意味がない。

(表の左から「NO」は私のレース記録番号で、ほぼ出走レース累積数と等しい。タイムは丸岡91年なら52分46秒83ということ。
走者数は完走者数。上位%は着順で自分の位置する%)
NO日時年齢大会名クラス距離kmタイム平均時速順位走者数上位%1位タイム1位タイム差1位tタイム%  自転車
141991/8/430丸岡91一般男子B1(30歳以下)350:52:46.8339.82310322.3%0:48:34.540:04:12.29108.66%HONJO
211992/8/931丸岡92一般男子C2(31~40)350:47:33.0544.261095.5%0:46:41.720:00:51.33101.83%CANNONDALE
361993/8/332丸岡93一般男子A601:32:06.1239.16016935.5%1:27:48.040:04:18.08104.90%CANNONDALE
471994/8/1433丸岡94エキスパート601:52:28.2032.07113054.6%1:36:43.370:15:44.83116.28%HONJO
631996/8/435丸岡96ミドル(35~40)350:49:56.5642.02513318.8%0:48:06.670:01:49.89103.81%HONJO GNU
741997/8/336丸岡97ミドル270:40:58.3739.52115613.5%0:40:54.250:00:04.12100.17%HONJO GNU
841998/8/937丸岡98ミドル270:42:00.9538.62717415.5%0:41:53.530:00:07.42100.30%DE ROSA
921999/8/138丸岡99ミドル270:43:06.2037.62014913.4%0:43:00.020:00:06.18100.24%DE ROSA

◆思い出に残るのは92年の6位入賞。表彰台にあがり、「ミス丸岡」に囲まれた写真など、最高であった。
実はこのレース、峠ピークのトンネルで先頭集団から切れた。下りでトップギヤは50*13であったが(そのころはアウター50を常用)とにかく回転させ、少しずつ前にでた。下り終わった平坦地で必死で走っていると後ろからすごい勢いで抜かしていく人がいた。2周走るエキスパートクラスの人。出走時間が遅いので、ちょうど追いついたところなのであろう。これ幸いと後ろについたところ、絶妙のスピードで人間機関車のように引っ張ってくれる。私にとっては限界スピードだが、ぎりぎり切れないところ。クラスが違うので牽制しあうこともなく、私の決死の形相を知ってか、やさしく引っ張り続けてくれる。なるほど、アシストとはこういうことをいうのかと初めて体感した。

そんな感じでひっつき虫となてばく進していたところ、ゴール方面ともう1周するその人との別れとなる、三叉路近くになって、なんと自分のクラスの先頭集団に追いついた。
ゴールスプリントは無我夢中でかろうじて6位入賞。批判はあるかもしれないが、私にとっては初めてのメジャーレースでの入賞で、思い出深いものとなった。1位と2位は集団から逃げ切っていた模様。
◆翌93年はクラスアップした。
◆94年は練習不足にもかかわらずクラスアップしたままで2周。この時は悲惨で、暑さの中で、いきなりスタートしてしばらくして川沿いの国道に出る前に切れていた。ヘロヘロでまったくレースにならなかった。
◆95年は出産のため出走せず
◆96年は忘れてしまったが、このころまでは峠のトンネルまでで集団から切れていた。
◆97年はニフティの自転車フォーラムで発言しているので引用。97年から峠のトンネルまでで切れなくなった。
>丸岡,今年も行って来ました。去年からミドルなので,レースになりそうな予感で気合いも入ります。
マシンは「HONJO ジニアス+ヘリウム 52-42,12-23」。やはりレースにはクロモリ(ニバクロ)マシンで出てしまいます。ここ一番というときの「スパーン」と前に出る感じが好きだからです。

さて,レースは前半は特に波乱もなく先頭集団前から20人あたりをキープ。トンネル前の登りもなんとか付いていき,下りで脚を休めながら,先頭集団に残った喜びをかみしめ平地へ。自然と前に出てしまい,先頭を引いたところ,一気に苦しくなり、すぐさま集団に埋没。回復するまで相当かかり、ひっつき虫状態で第一集団後方へ。ラスト三叉路手前急な短い坂で,みんなダッシュするかと思いきやスピードもさほど上がらずダンシングで5位くらいへ上がる。

「しめしめ」とおもいつつ左折してラスト直線に入ったところ猛然とスピードがあがり一列棒状。ちぎれそう。必死で走るが前に出ることは到底無理で先頭集団の後ろから3番目でゴール。順位は10位くらいか。

自分としては上出来のレースでした。展開でまだまだ勉強すべき点はありますが。

自己計測 タイム41分00秒(ゴールしてから5秒くらいしてボタンをて押していますが) 最高速度72.9KM 平均速度39.3KM。走行キロ26.93KM。

※実際の順位は21位でした。恥ずかしい。ただ、1位とのタイム差は歴代最小。
◆98年もニフティから引用
>ご無沙汰しております。今年も丸岡に行っていきました。
前日の土曜日に現地入り。試走を2周(約55km)しましたが、例年より涼しいせいもあって好調です。トンネルまでの坂も短く感じます。ギヤは52*21で十分。

宿もきれいで同行の1名と二人で個室です。大部屋雑魚寝の喧噪とは無縁。9時過ぎには就寝し、翌日に備えます。

当日は6時起床。実業団のスタートが早いので、6時でも宿はもぬけの殻です。

出走は9時27分。1周30km弱(以前よりもコースが短縮)のミドルクラス(35から39歳)です。

天気は晴れ。京都と比べると暑くないので大丈夫です。

前から2列目でスタート。出走は150人ほど。
スタート直後、例年なら結構心臓がバクバクしているところですが、今年は平気。緩い登りですが、右側の路面状態のいいところを走り、するすると先頭2番~3番手へ。皆、脚をためているのかスピードが上がりません。

ついつい先頭をひくことになってしまっても私もスピードをあげません。そんな調子で川沿いの登りも楽々ペース。後ろからは「イケー、オラー」とかいう声がうるさいので「声ばかりあげんと先頭引いてくれ」というと静かになりました。でも前を全力でひいたり、アタックをかます人はいません。

そうこうするうちに「たけくらべ」前のコーナーをまがり、峠への登り。さすがに、ペースアップし、私は自然と先頭集団前方から、集団内に埋没します。
トンネルが見え始めたあたりの苦しいこと。このまま切れてしまおうかと思いましたが、なんとか踏ん張り、トンネルへ。トンネル内はほぼ平地ですが、ここで気を抜くと第2集団になってしまいます。トンネル内も必死で脚をまわしなんとかついていこうとしますが、先頭の5~6人とは若干遅れ気味。このままではいかんと、下りもめいっぱいまわし、下り終わりの右カーブで先頭に追いつきました。

そこからの平地は向かい風。集団の恩恵で後ろにつくと楽ちん。そのまま前をひくこともなく余裕で集団キープ。最後の短い坂も難なくクリアし、いよいよ左折しゴールへの直線。

去年はそこで、猛然とスピードが上がり遅れ気味になったので、今年は気合いを入れて左折。先頭のスピードはたいしたことなく、左から「ひだりーーー」と叫びながらするすると前に出ようとすると、あっけなく先頭になってしまいました。

しばらく(20秒くらいか)先頭を走りましたが、自分でも信じられず、事態がのみこめないままにそんなはずはないと思い、「このまま持つはずがないので、だれかの後ろにつこう」と躊躇したした瞬間2~3人に抜かれ(ギヤが重すぎたかも)、「くそー6位入賞には残るぞ」と踏ん張ろうとしましたが、限界でゴール前20mくらいのコンビニ交差点あたりで今度はドドーと集団に抜かれ、結果は20位くらいだと思います。

レースに「たら、れば」はありませんが、悔しいです。でもまあそれが実力でしょう。峠のトンネル通過順位が「地力」だと考えるとまあ順当なところでしょう。

ちなみに自転車はDE ROSA「ネオプリマート」、レースは初使用でしたが、満足できる乗り味でした。
使用ギヤは52*39 13~23、インナーは使わず。下りのためにトップは12があればよかった。メーター読みで最高速は73kmくらい。
※実際の順位は27位

◆99年
今年はものすごい強風で集団のスピードが上がらなかった。登りも向かい風で、トンネルまでずっとダンゴ状態かと思ったが、トンネル手前100Mあたりで、けっこう遅れ始める人が続出。トンネル入り口付近で私も置いて行かれそうになったが、なんとか踏ん張り、トンネル内が暗くて先頭のスピードが落ちたところで息をつく。下ってからの平地は追い風で楽ちん。それでも先頭を引っ張る余裕はなく、集団内で埋没。今年は練習量が少なかったので、ここまで着いてこれただけで満足といった感じもある。ゴール前直線で猛然とスピードが上がり、切れないように着いていくのがやっと。必死にくいさがってゴール。ゴールしてから久々にへたりこんだ。最近のレースではゴールしても結構平気なことがおおかったのだが。


2000年シマノ鈴鹿ロードレース (2000年8月19-20日 三重県鈴鹿市鈴鹿サーキット)

シマノ鈴鹿ロードレース2000

  写真:中央ブルーのジャージが私。2日目オープン3周

今年は久しぶりに泊まりで参加しました。
鈴鹿は去年からプログラムの組立や種目が大きく変わってしまって残念です。
土曜日も早朝からレースがあったり、ツールド東北と同一日になったために、国際ロードの参加メンバーには華がないし、主催者の都合を優先させた大会になってきているような気がしてなりません。

まあ、そんなことより、レースの報告をします。

日目<オープンMII A1>

年齢制限なしの自由参加の3周のレース。
なんと、東京は「航空電子 自転車競技部」、中村仁さんと一緒です。
中村仁さんといえば、「常勝 中村仁」として天下に名をとどろかせ、ホビーレーサーで知らぬ人はなかった存在です。
当年とって53歳で、体型的にはいわゆる中年体型で、ペダリングも試走の時などは、けっこう重めのギヤを踏んでいらっしゃるので、仁さんのことを知らない新参者がみれば、たんなる中年レーサーに見えてしまうことがあるかもしれません。

鈴鹿が始まった年には既にシニアクラスで、その後グランドシニアになられたので、私は一緒に走ったことはありません。
だいたい毎年優勝されており、観戦する機会は多かったのですが、スプリント勝負に強い人で、集団を支配するレース展開という印象で、どうして他の人は単独逃げをするなどして仁さんをゴール勝負から引き離すことができないのかと、疑問に思っていました。

今回はオープンクラスで、若手の選手には仁さんを知らない人も多いことでしょうし、仁さんの走りに非常に興味をもって、スタートしました。
スタート位置は、仁さんの斜め後、いい位置です。スタートからシケインまでの登りで仁さんは先頭から10位くらい、私もすぐ後につきます。特に苦しくはありません。集団のスピードはそんなに速くは感じられず、私も先頭10位前後といい位置です。ところが、マウンテンポイント地点を過ぎた下りの惰性で思わず先頭になってしまい、そんなにシャカリキではないのですが、しばらく前を引いたところ、めちゃくちゃ苦しくなりました。疲労を回復させるのに半周あまりかかり、しばらく集団に埋まって、2周目へ。
スタートでとなりだった「TRAP」の永井選手が先頭をひきまくっています。永井選手は強い選手です。

仁さんの位置も絶えず注視していましたが、さすがにレース巧者の仁さん、いつでもいいポジションです。集団内で対流がおこったり、成功するわけもないアタックがかかったりして、集団の動きが乱れても、いつでもベストポジションです。3周目、最終周回を告げる「ジャン」がなるホームストレートで永井さんがスピードをあげ、仁さんをも追い抜き、シケイン手前で一瞬、永井さんを先頭に私も含めて集団からの逃げがきまるかと思いましたが、そんなことはなく、集団は再び大きくなりました。ふと前を見れば、仁さんはいつのまにか6位前後のベストポジションです。

そのまま大集団でゴールに向かい、私は集団内で動きがとれず、先頭5秒遅れの62位。5秒といえば、時速40kmで秒速11mですから50mは差が開いていたことになり、ゴール前には脚が切れていたというのが事実でしょう。仁さんは14位、2秒遅れ。
ご本人としてはまったく不本意な結果でしょうが、やっぱり仁さんは強かった、グランドシニアになられても、私などはまだ全然歯もたたない存在であるということが、よくわかりました。

 

2日目マスターズM30+B2(3周)

30代男性が3周するレース。
昨日の反省をもとに、今日はいい位置をキープして走ろうと思い、スタートするが、けっこう苦しい。ゴールストレートからシケインまでの緩い登りやマウンテンポイント地点付近の登りはまったく平気なのだが、周回の後半がどうも苦手だ。落車が多いので、落車を避けようとすることに気がまわり(今年の丸岡で落車にまきこまれ、けっこう大きなケガをしたため)、後半で集団内のポジションを落としてしまうというパターン。

昨日よりもペースが速く感じられ(風のせいか)、けっこう苦しかった。今回も集団内ゴール。


2日目オープンMII B3(3周)

今年から同一日に複数エントリーが可能になったので、2日目は3周を2回走ることにした。30台のレースのスタート時の2時間後。
30台のレース終了後は脚の疲労感が大きかったので、出走を辞めてビールを飲もうかとも思ったが、やっぱり出ることにした。

脚にきているので、無理はせず、集団の様子見をきめこもうと思ってスタートしたが、ペースが遅いのとやたらと落車が多くて危険なので、やはり集団前方で走る。
落車は嫌になるほど多かった。まずスタート時にいきなり単独でコケる人がいて、周囲から罵声が飛ぶ。1周目のシケイン通過後も前方で落車があり、避けるためにスピードダウンして、集団中切れをおこしかけるが、難なく集団に追いついた。集団に追いつくのに要したエネルギーで疲れがでるかと心配したが、全然そんなことがなかった。
この落車のあと、集団前方で走ったのでその後は後方で落車の音をきくことばかりで被害は免れた。

昨日は年代別のレースがなかったために、オープンの3周レースにも足慣らしのために、そこそこの人が出走していたが、2日目のこのレースのメンバーには周囲に迷惑を及ぼす人が散見され、レベルが低かった。

なんて、えらそうに書いても、結果はまたもや集団内。今回はゴールストレートで左端に位置し、前方が開いていたので、脚さえあれば、もっとよい着順がとれるのだが、結果のとおり。

鈴鹿ではずっとインターミディエイト4周に出走していたが、去年からプログラムが変わって4周レースがなくなったので、3周にしたが、来年からは5周のレースに出たい。3周のオープンクラスは走りにくい。